総合の課題(読解力、裁量権)
 文部科学省のWEBページで次のような会議資料が出されましたので、【課題】部分の意見について検討を試みてみました。
教育課程部会 生活・総合的な学習の時間専門部会(第8回) 平成17年9月21日
配付資料「生活・総合的な学習の時間専門部会におけるこれまでの主な意見」

○  「読解力」をつけるためには,ただ読めばよいというわけではく,必要な本を選んで,読んで,話し合って,自分のことばでまとめていくという作業を通して初めて「読解力」がつくものと考える。「総合的な学習」と「読解力」の関係も今後明らかにしていく必要がある。

○  学校にある程度の自由度というものが確保されないと充実は難しいのではないかと考える。人的なもの,時間的なものなど,さまざまな制約があって学校は窮屈な計画を立てざるを得ないのではないか。


 読解力については、指導要領の解釈が教育現場に十分浸透していないのではないかという心配があります。あわせて、世間一般に広く理解されていないこともあって、無用な混乱を招いている心配もあります。小学校学習指導要領に直接、読解力という文言は登場しませんが、国語の「読むこと」に読解力に相当する内容が集約されています。中学校も同様です。
 読解力の低下が話題になったとき、PISA型読解力という言い方で使い分けすることによって、理解不十分の議論が飛び交ったような印象を持っています。読解力の一般的な定義は、文章を読んで内容を正確に理解する力ということになります。しかし、教育現場では、読解力だけを教育内容の基準にしていません。学習指導要領、国語の「読むこと」をきちんと読めば、PISA型読解力というような文言は必要ありません。国が示している基準が教育現場で達成できているかどうか、もし達成できていないとしたらどうするのかが問題だということが分かるはずです。
 基準を抜きにして、百家争鳴の状態になることは、基準の権威が落ちていくことを意味しています。全く同じことが、学力低下問題でもおきてしまいました。そして、未履修問題でも国が示した基準より、進学対策のほうが優先したわけです。基準に従ってもあてにならないという雰囲気は、学校も含めて権威が落ちていくことになります。
 学習指導要領は教育分野の国家基準であり、法的拘束力があります。国語で示された「読むこと」は国語の時間だけで達成されるものではなく、他の教科にも深く関連しています。読み取ったことをよく考えて、自分の考えを持ち、他の人に伝えることは「総合」でも避けて通れない内容です。きちんとそのことを理解して実践している学校は皆無ではなく、現にあるのです。子どもたちの力が教育実践のあり方で格差をもたらしていることをPISAの結果が示しているのなら、それこそ国家基準の浸透を話題にしてほしいと思います。
 学校5日制やゆとり教育を批判して教育改革を叫ぶことは尋常ではありません。なぜなら、理念、基準、仕組みがからんで、日々の教育活動は行われているからです。うまくいかない原因を部分的に取り上げて、現に行われていることを否定するような論議には、うんざりさせられます。根本的なところを覆すまでにはいたらず、部分をいじくりまわすだけです。戦後の学習指導要領をていねいに読んで、読解力を発揮していただければ、国が教育に求めていることは理解できると思います。子どもたちの読解力を問題にする前に、大人たちの読解力を試したくなります。

 計画を立てるに当たっての自由度は学校によって格差があると思います。平成15年度から2校を経験しましたが、総合的な学習の時間に対して予算的な裏付けがきちんとできていました。委託事業の形態を取っているので、年間の配当額をかなり融通の効く費目で執行できます。「総合」は教科と異なりますから、総枠ではなく「総合」に限って配当されると自由度が生かされます。ただし、計画がずさんであったり、計画がないに等しいような状態では、せっかくの予算も有効に使われないおそれがあります。基本的な考え方として、予算があるから事業ができるのではなく、事業を計画的に実行するために予算の裏付けがあることを先生は理解していないといけないでしょう。
 人材についても同様の考え方で計画に組み入れていくことが要求されます。先生の教材研究を上回る知識と経験を持っている方は、学区の内外にたくさんいます。そして、無償で活躍の場を求めていることが、本年度のテコ入れで実感できました。ある程度自由にできるという条件は、基本的な考えに沿って責任を持つことになります。