総合の課題(学力、体験不足)
 文部科学省のWEBページで次のような会議資料が出されましたので、【課題】部分の意見について検討を試みてみました。
教育課程部会 生活・総合的な学習の時間専門部会(第8回) 平成17年9月21日
配付資料「生活・総合的な学習の時間専門部会におけるこれまでの主な意見」

○  PISAの調査のまとめを見たが,順位だけが問題になっている。点数がいいということと,物事を理解しているということが遊離してしまっている。一番大切な「わからないことがわかるよろこび」を体験させていないことが問題である。そのような状況のもとで,「総合的な学習」を行うことで学力が上がるとか下がるとかいった議論は意味をなさない。基礎学力と「総合的な学習」は補いあうものであって,二律背反的にとらえるべきものではない。

○  総合的な学習と教科学習の二者択一といった受けとめがあるが,知識は体験を通して精査されるものなので,どちらが必要かといった論議はいらないはずである。しかし,なぜ混乱するかというと,我々大人は,体験の意味がわかっている教育を受けきていないわけで,そういうリソースがないからである。したがって,体験が大切だと説明するだけでなく,教員に体験させる場をもっと与えていく必要がある。

 すでにこのコラムで述べたように学力の問題にからむことは、同じ考えです。「学力とは」という定義がそれぞれの思惑で作られ、学力が落ちていると主張するのですから、議論にはなりにくいことです。大学からは、学生の実態をもとに義務教育の時間数削減や高校の履修変更を理由に程度が落ちたという話題になっています。
 少数者の話ですが、様々な事情によって学校教育から遠のいた子どもたちが大検をくぐり、活躍する例もあります。中学3年間をほとんど登校しなかった子どもが大学生として活躍した例もあります。学校の果たす役割を探っていくと、小中高の学校教育だけで大学において学問を究める土台が形成されると思うことに無理があるようです。学校に行く、成績がよい、履修したなどの結果から、学力が身に付いたと判断するにはほど遠いようです。
 学習の根幹になるのは国語教育だと数学者、藤原正彦先生は主張しています。そのことに異論をはさむ余地はないと思っています。生活の中であらゆる機会に国語教育が浸透していなければ、他の教科や領域は生きてきません。人間は言葉で考えているとされるのも、文化が伝承され、文明を作り上げてきた歴史的事実がゆるぎないものとして証明しています。言葉に厳密であるようにと主張してきた理由は、そこにあります。
 ところが、世の中を見渡したときに言葉が貧困になっていると感じるのです。極端に子どもたちの意思の疎通に使われている言葉が貧困だと限定しません。あらゆる場面で言葉の貧困さは出ていると思うのです。特に感性を表現する言葉は貧しくなっています。日本語で表現できる言葉をわざわざカタカナ英語に置き換えることも言葉が貧しくなる一因だと思います。アメリカによりどころを求め続ける人々の声が大きくなり、日本語で考える日本の文化を誇りとしなくなったらお終いです。
 江戸時代に学習の根幹は「よみ かき そろばん」という形で作られています。ところが、文明開化を期に様々な学問が西洋から入り込んで、価値あるものを伝えようとしてきました。学校教育の枠組みの中で、総合的な学習の時間を維持すべきだと考える理由は、日本固有の生活に根ざした文化を考え方として培っていくのに最適の時間になると思うからです。2つめの課題もあわせて、達成できる場は総合的な学習の時間が中心的な役割を果たすと私は考えています。

 そもそも体験が少なくなっていった経緯は、産業構造の変化と生活様式の変化が大きな引き金になっています。便利さという価値観だけで判断して、捨ててはいけないものを捨てたことによります。それが今になって注目される例として、もの作りの技術があります。高度に制御できる工作機械が開発されても、手作業の加工技術に機械はついていけないわけです。
 捨ててはいけない職人技術、優れた芸術を守り続けることに関して、西欧の国々は誇りを持っています。支配者自らが保護してきたことも大きいでしょう。残念ながら、アメリカには守るべき独自の伝統的な技術も芸術も見付かりません。この違いを理解したうえで、日本の生活に根ざした伝統的技術や知恵を守り続けようと思うと、体験を通しての学習は不可欠です。しかも、昭和30年代中盤以前の生活経験を持っている人が生きているうちに伝承をしないと手遅れになるでしょう。
 体験を学習に取り入れようと思うと、考え方を変えなければできません。資源に依存しすぎた生活を白紙に戻すことができるならば、否が応でも体験すべきことは数多く見付かります。先生が体験すれば解決できると思うのは、やはり依存型の考え方です。

 先生も子どもも有能な精鋭だけを集めたら、だれもが認めるような優れた学校ができると思いますか?
 会社にとって有能な人材だけを集めたら、業績の優れた会社になると思いますか?