総合の課題(ねらい、読書活動)
 文部科学省のWEBページで次のような会議資料が出されましたので、【課題】部分の意見について検討を試みてみました。
教育課程部会 生活・総合的な学習の時間専門部会(第8回) 平成17年9月21日
配付資料「生活・総合的な学習の時間専門部会におけるこれまでの主な意見」

○  総合的な学習とはどういうものか理解されているかという点。総合的な学習の時間が何を目指しているかということが現場に十分理解されているかということが課題である。それは教育関係者だけでなく,保護者を含めてわかるようなものにしていく必要がある。

○  総合的な学習の時間のねらいの理解が十分でないのではないかという問題にすべては帰結するのではないか。読書にも範囲がないが,総合的な学習も教科書がなく,教える範囲が限定されていない。教科書がないことを最大限に生かし,物を考える力や読む力,ことばなどに還元していってはどうか。そのためにも本を読むといったことを総合的な学習の時間に位置付けていく必要があると考える。学校図書館などを利用して体験したことを本と結び付けていくことが学力につながっていくのではないか。

○  「総合的な学習」に対するパブリックコメントをみて,現場が混乱していると感じた。「総合的な学習の時間」が元来何をねらいとしているのかということを,教育の現場ではっきりとさせておかなければならない。


 ねらいを分かりやすくして、先生にも保護者にもきちんと理解を求めていくことは必要なことですが、それだけでは十分とはいえません。内容を規制してこれをしなさいとなると偏向していると批判をし、内容を規制しないで自由に考えてしなさいとなると曖昧でよく分からないと批判する身勝手な意見があります。一部とはいえ、そうした無責任な意見があることは事実です。自由をはき違えている先生や保護者がいる中で、果たしてねらいを理解するだけで解決するでしょうか。
 理解が不十分ということは、説明すべき責任を果たしていないか、説明に耐えるだけの計画がないかのどちらかです。どんなことをして、何をめざし、どんな子どもにしようとしているかを信頼のおける形で説明しようと思うと総括的な計画が必要です。こうなると、学校経営のトップは何をしているのかということになります。
 総合的な学習の時間は、教科とは異なり、学校独自に具体的なねらいを構築することで、子どもや保護者に全体像が伝わります。学習指導要領に記載されていることを伝えるだけでは、理解されません。学校が説明できるだけの中身を持っているかどうかが問われているわけです。
 学校では教科以外の任意に位置づけをしていく教育領域があります。学校教育のねらいに合致することであれば横断的に、意図的に指導を展開していける分野です。こうした領域での教育計画は、学校間の格差が大きく、形骸化している場合もあれば、学校の特色として機能している場合もあります。学校が自ら計画を構築する教育領域を経験してきた先生にとっては、総合的な学習の時間のねらいは理解しやすいはずです。さらに、経験した先生が総合的な学習の先導役になれば、進展は期待できます。
 以前にも書いたことですが、健康教育、性教育、図書館教育、情報教育、人権教育、国際理解教育、特別支援教育、環境教育、福祉教育などは指導内容の関連するところを抜き出して、学校独自にねらいを作り上げ、焦点化しようとするものです。従って、指導要領に明記されたものではありません。裏を返せば、やってもやらなくても差し障りありません。だから、経験者が一部の先生になるのです。
 こうした現場の取り組みと総合的な学習の時間の融合を試みていけば、とらえやすくなります。ところが、学校現場の任意の領域での取り組みと指導要領の例示は別ものと受け止めてしまう誤解もあります。国が教育内容の基準を示す方法は、欧米では高く評価されています。しかし、どのような仕組みで末端にまで周知していくかは課題となったままです。一つの方法として評価システムと抱き合わせにしていく試みが内外で続いています。学校単位で教育内容の全体像が構築されるならば、基準が機能すると考えています。基準の骨格だけでなく、尾ひれまで取り込んだ全体像です。そうでなければ、評価は方法の段階で挫折し、形骸化していきます。絶対評価になって学校が変わったといえる学校は少ないでしょう。

 引用した二つ目の後段にある読書活動については、学校現場が取り組んでいる実情を抜きにした考えです。先ほどの全体像の中に読書活動が位置づいている学校では地道な成果が上がっています。問題点は、蔵書を充実させる条件整備に格差があるということです。学校図書館の整備事業は自治体任せですから、10年以上続いた全国調査の結果を見るまでもなく、達成できていない学校は数多くあるでしょう。
 学級数の違いによって基準蔵書数が違うのもおかしな話です。学校を文化の拠点として認めない人があまりにも多すぎる結果です。パソコンにしても、図書にしても、なぜ文科省が示した整備計画どおりにいかないか真剣に考えていただきたいところです。