総合的な学習のゆらぎ6
 前回の評価にかかわることで、もう少し伝えておきたいことがあります。教育現場では、言葉に対する厳密な考え方が日常的になっていたのに、年々頓着されなくなってきたと感じることが多くなりました。
 かつては、教科としての国語を指導する立場から、あやふやな解釈をしていたのでは指導者としての専門性がゆらいでしまうことをわきまえていました。新米教師が、書き順を間違えたり、間違ったまま覚えた字を書くと子どもに指摘されますから、信用が落ちないようにうまくかわす方法を伝授することもありました。表記に忠実な教科書でさえも間違った使い方を見逃すこともあり、現場の先生が訂正を指摘することがありました。
 漢字表記について例をあげると、未だに決着のついていない使い方は「子供」、「子ども」、「こども」の3通りです。「子ども」が多く使われるようになった理由はあるのですが、「子供」が、本来の使い方だと主張する方がいます。もう一つの例として、「達」は、「友達」だけが常用漢字表の付表に当て字訓として示されているので漢字表記ができます。しかし、「子どもたち」「私たち」は同様に接尾語として使われているのに、当用漢字音訓表には読みが示されず、当て字扱いになっていました。結局、使ったり使わなかったりするいきさつの後、「友達」だけが使ってよい表記として生き残っています。
 頓着することがなくなってきた原因を探れば、思い当たることはいくつかあります。丸文字が流行ったころからワードプロセッサーが急速に普及していき、教育現場でも書き記すより、文字入力の方が多くなっていきました。消して書き直す煩わしさから解き放たれ、訂正がいとも簡単に行えるようになりました。そうした便利さが言葉の持つ含蓄を軽く扱うようになってしまったといえます。しかし、一律に無頓着な人が増えたのではなく、書き記す経験を十分積んだうえで文字入力に乗り換えた人は結構頓着します。逆に手書きの経験が少ないままあやふやな語彙を使いこなしている人はフロントエンドプロセッサーの辞書にお任せになっています。「纏めて」「些か」「拘り」「甚だ」など変換で出てくれば、使って平気なわけです。
 ところが、世の中は安易な方に流されやすく、丸文字でも読めればいいではないかと許容されていったり、表記にこだわらなくても伝わればいいではないかと妥協したりする中で、言葉に対する厳密性は取り沙汰されなくなってきました。さらには希薄な人間関係は、子どもにだけ当てはまることではなく、戦後世代の大人たちを土台にして育まれてきたことです。そのことが、敬語を必要としないくらしを生み出し、上下関係を抜きにした言葉づかいでも、違和感を感じなくなっています。マスメディアが先頭を切って崩し、次に教育現場で乱れが生じ、最後の砦である文学界が頓着しなくなったら、日本の日本語は末期症状と言えるでしょう。
 普段の授業の中で先生が繰り返し説明する言葉は無駄を生み出し、子どもが考えることを妨げる恐れも含んでいると感じることが多くなっています。そして、曖昧な目標設定は授業の成否を曖昧にし、抜け落ちた何を補充しなければならないかを見失わせています。
 少なくとも、教育現場で言葉の厳密性を維持すると、発問や評価のレベルアップにつながります。子どもに伝わる言葉を厳選し、行動目標や考え方を示す目標を子どもにも分かるように明文化することで指導力は飛躍的に向上します。教え込む場面が少ない総合的な学習の時間では、学び方を伝えることが先生の役割になります。適切な言葉を選んで子どもに伝えていくことが求められています。