総合的な学習のゆらぎ4
 子どもたちの自立を促せば、総合的な学習の時間もうまくいく、教科の学習もうまくいく、学級経営もうまくいくという理屈を展開してみます。
 学習について自立しているという子どもの姿です。自分がしなければならないことは、自分でやり遂げる。それができなければ、やり方の手ほどきを受ける。できないことはできていないとはっきり指摘し、自ら努力するように仕向ける。たったそれだけのことです。
 取り組みたいことが分からない、何も思い浮かばない子どもがいます。「○○してみたら。」とできそうなことを示すのは問題ないでしょう。しかし、「何も思いつかないのなら、これをしてみなさい。」「○○をしている人が多いからやりなさい。」などと言葉をかけたら、親切が仇になってしまいます。先生がやりなさいと言ったからやってみたけどつまらなかったという責任転嫁が待ち受けています。自己決定は自立のための道筋になることを先生は知っていなければなりません。
 何を自分が選択すればよいかは自分なりの理由を考えて自分が決めることです。みんながしているからするという理由は、自らの価値観を放棄しているのです。オリンピックが開催されると日本中の全員がオリンピックに関心を持って見ていると思いこんでマイクの前に立つ人間がいます。サッカーワールドカップもしかり。価値観の操作が無神経に行われている中で興味のないことには首をつっこまないと言い切れる自立した考え方を子どもたちに求めたいのです。
 とりあえずやりたいことを自ら選択してみたものの何をしてよいか分からない子どもがいます。どんなことができるかを例示するのは先生の役割です。自立が促されていくなら、その中からしたいことを選んで行動に移すことができます。うまくいかなかったときの責任転嫁のために決定権を他人に預けるような子どもであってはいけません。うまくいかなかったのは○○のせいだ、言われたとおりにやったのだから自分は悪くないと考える子どもは自立からどんどん遠ざかっています。
 もう一つ自立を阻むこととして、子どもに関わりすぎる傾向が強くなっています。子どもの数が少なくなって、親が子どもに関わる時間が増えたことと関係があります。見守るだけでいいはずなのに、暇をもてあまし親切に関わってしまう場合が多くなっています。これは学校でもご多分に漏れず、親切になりすぎた先生が増えています。子どもがしなければならないことと先生がする必要のないことを先生自身が分別できなければ、自立によい影響を与えません。悪意のない過干渉であっても、結果的には子どものためになりません。
 そのためには、総合の時間だけにかかわらず、教科の学習においても子どもを正確に把握することです。最近の言葉では「みとる」ということがよく使われますが、要は掌握することです。目の前にいる子どもは、今、考え中なのか、考えあぐねているのかを先生が理解することです。判断を誤ると自立した方向で一生懸命考えている子どもに水を差してじゃまをすることになります。くれぐれも念を押しておきますが、放任はいけません。口や手を出さずに見届け、助言を与えるだけです。

 親切や干渉を減らすと先生は時間をもてあますようでは、策がないことになります。観察記録をとる、助言の内容を考える、ヒントになる教材を模索する、次の時間の展開構想を練る、・・・いくらでも取りかかれることは出てきます。