総合的な学習のゆらぎ2
 親が子どものころと比べ、現在の子どもたちは変わってきたとよく言われます。変わったことに対して、これまた教育の目的がゆらいでいます。育てたいことが育っていないという危機感から、あの手この手が出され、評論家が諸説まくし立てる現実があります。
 子どもの数が減り、兄弟姉妹が減り、ものに不自由せず、自動制御で人手はいらなくなりました。一瞬チャップリンのモダンタイムスが頭に浮かんでくるような変わりぶりです。「社会の変化に対応する」というくだりは、子どもたちに向けられた言葉ではないとわたしは思っています。世間一般にころんでいる考え方が、社会の変化についていけなかったように思えます。子どもたちは現実を受け入れていくしか選択肢がありません。ところが、大人たちは、今まで通りにいかなくなったとぼやくわけです。社会の変化に対応できる子どもを育てるということは、大人が変化にどのように対応してきたかを教えることになります。経験を通して、社会の変化によるずれを見抜く力が指導者に求められています。
 例えば、体験が不足している子どもたちというと、いかにも子どもに問題があるように聞こえますが、それは間違っています。子どもたちに体験が不足しているから、本物と出会わせていくわけです。つまり、体験を通して本物と出会わせなかったことが問題となるのです。体験的な学習を多く取り入れようと思うと、振り分けられた教科の時間では制約が大きくなります。そこで、柔軟に計画できる時間を設けるために総合的な学習の時間が登場したという経緯があります。
 ものを作る、植物を育てる、観察するなどの体験行為は、時間の流れに逆らうことができません。ましてや、優れた動画資料を見せるだけで疑似体験させようとするなどはもってのほかです。時間の流れにそって手間暇かける過程の中で学ぶ材料が生み出されていきます。さらに、人と関わり、コミュニケーションをとる場面も多く持てます。いいことずくめなのに、いかんせん時間がかかります。時間を調整するために、途中の過程を省いたり、出来合いのもので間に合わせたりすると時間のやりくりはつじつまが合います。しかし、途中の学びとコミュニケーションは失われるわけです。これでは、以前と同じことになり、子どもたちをだめにしていく授業を繰り返してしまいます。
 体験の中の過程に注目しない設定は、ゲーム機相手の一人遊びと同じことになってしまいます。人と関わらず、コミュニケーションの必要も感じなくなり、マイワールドにのめりこんでしまうのです。
 子どもたちに不足していることはこのほかにもたくさんあります。かつては当たり前のようにくぐってきた経験や教えを整理して、学校や家庭の役割の中で位置づけていくことで、社会の変化に対応できるようになるでしょう。総合的な学習の時間だけでは実現しません。ましてや、学校の中だけでまかないきれることではありません。