総合的な学習のゆらぎ1
 総合的な学習の時間がの話題がすっかりなりをひそめている現在、現場から巨視的に見渡していく思いに駆られました。
 「生きる力」を子どもたちに育むといいながら、「生きる力」にからんでくることは、これまでもやってきたことです。総合的、横断的な学習は初めて取り入れられたことかというと、これまたやってきたことです。時間の枠組みだけ新たに作って、学習内容は学校独自に創意工夫すればよいといいながら、新たにそんなことをする必然性をあまり感じていないのではないかと思ってしまいます。
 子どもの立場に立って現状を見れば、体験をしないまま知識だけで大きくなったと言われてきました。知識偏重にならないよう、教科書を薄くして、評価観点を変えてみようと言い出したのはいったいだれだったのでしょうか。結果的に、知識さえもおぼつかない、体験も十分できていない子どもたちは、大切なことを見失った一部の大人の発言によって不作の烙印を押されたようなものです。
 これまで真面目に子どもを伸ばすために努力してきた現場の先生方は、もっと自信を持たなければいけないわけです。どんなことをていねいに、確実に指導していったらよいかを先生自身が持っているのであれば、子どもをだめにする教育改革の中身は吟味できると思います。
 教育の目的は教育基本法の冒頭に掲げられています。

 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

 明確な目的が掲げられていてもなおかつ、「生きる力」だ、「人間力」だ、と解きほぐされなければ自分の仕事が理解できない先生だとは思われたくないですし、思ってほしくないです。別の言葉で解説しなければならないほど難解な言葉を使って第1条が書かれているとは思いませんが、先生方はいかがですか?
 法を遵守することは当然のことです。しかし、具現化するためには法に基づいた理念を持つことが要求されます。解釈と現実の開きは人それぞれに違いがあるのも当然です。ところが、理念が揺らいでしまうと、現場は混乱してしまうでしょう。
 例えば、安全性、経済性、快適性を理念にして車作りをしている会社が突如、安全性は犠牲にしてもいいから、売り上げ向上を最優先にしたとします。これでは、法を犯すばかりか、理念さえも崩れてしまいます。
 総合的な学習の時間という枠組みが創設され、教科の時間と内容が削減されたことは事実なのですが、教育がめざしている理念はそのままです。そして、理念を実現していくための方法や内容もそのままです。教育改革という名の下に、一見目新しいことが次々と出ているように見えるだけです。目の前の子どもたちに対する先生の願いがゆらぐことはないと思います。