体験から学ぶ
 学ぶものにとって体験学習はとても魅力的なものです。例えば、備前焼がどのようにつくられるのか資料を見ながら学習することは、バーチャルな読みとり能力を駆使しています。しかし、工房に出向いて土作りから釜たきまで体験学習をすれば、バーチャルな資料にはないものを学び取ることが可能になります。資料の行間や写真の背景にあることが生の形でとらえやすいでしょう。
 職場体験、介護体験、フィールドワークなどはレアな体験でしょう。ブラインドウォークや土ひねりだけするのは疑似体験です。レアな体験が何ものにも代え難いのは、一つの宝物を備えていると私は考えます。総合的な学習を進めるうえでどんな理屈よりも優れている学習理論を備えているのです。
 宝物とは「事実」なのです。体験学習を通して人と出会い、ものと出会いそこから生の人間の生きた言葉が事実として語られる場面が必ずあるはずです。その人自身が語っている事実が大切なんです。Aさんの語りをBさんが聞き取って、Cさんに伝えるとき、多くの場合はBさんの主観的な解釈が入り込んで伝えられやすいわけです。Aさんの語った事実は確実にCさんに伝えられるという保証はありません。伝言ゲームがその実体をよく表していると思います。
 事実を大切にしていくことで、人間関係の中に生じる構え(別の言葉で言えば本音とたてまえ)は取り除き易くなります。口先にでてこない「ホントはね」という前置きを意識して言葉を理解し、認識させたいのです。子どもたちが取材したことを第三者に伝えるとき、この視点がないとBさんのようになってしまうでしょう。
 子どもたちに「ホントかな?」と投げかけることにより、「何がホントなんだ!」という葛藤を引き起こすならば、事実を考える力は伸びると思うのです。例えば、「歴史の教科書の内容はすべて事実だと思いますか?」と問い、「ハイ。」と答えておしまいになるようでしたら心配です。歴史的事実のすべてとはいえませんし、国家にとっての事実だったり、民衆の中のごく一部の人間の事実だったりするわけです。極端にとらえれば、小学校算数の教科書は数学的事実であると同時に、架空の問題場面で現実離れしている部分とが同居しています。
 理科の観察も事実をつかんでいくプロセスは同じです。例えば、オタマジャクシはカエルの子。それが証拠にやがて手がでる足が出る。手と足はどっちが先に出るの?足はゆっくり出てくるけどあとからでてくる手はいきなりポンと飛び出すのが観察の結果による事実なのです。
 体験すれば学ぶことができる。これも事実を述べていません。体験の中で対象としている相手がどういう立場の人かで事実が異なることもあるわけです。職場体験で考えれば、その仕事の現実が一番よく見えている人に出会うことです。