ピリ辛「総合」(5)
 「総合」より教科のほうが大事だと主張する先生や保護者がいます。10数年前に生活科が創設されたとき、すり替わった理科、社会科を擁護する先生から批判が出てきたことと大変よく似ていることは、以前にも述べました。
 複数の教科を扱うことの多い小学校の先生と単一の教科だけを扱うことが多い中高校の先生とでは考え方にずれが出やすくなります。小学校の先生は先生自身が苦手な教科も教科研究をして指導することになります。ですから、国語が苦手な先生であっても教えるという立場で苦手意識を克服し、よく分かる指導をする先生も登場します。
 国語と算数、数学と英語が受験にも大きく関わる大事な学習だから、それ以外は大事ではないと考えている先生は、自分の立場を見失っています。そういう先生は私設学習塾を開けばいいのです。公教育の現場では、価値を認める教科だけに専念できない仕組みになっています。教科や領域の好き嫌い、価値を認めるか否かを私的に先生が表明することは何ら問題になりません。しかし、職業人として教える立場で考えを表明するときは教科や領域に価値観があることを前提にしないと話になりません。話にならない先生は環境教育や健康教育は大事だけど、「総合」はやりにくいから、なくてもいいと平気で言ってしまいそうです。この間違いは今に始まったことではありません。道徳はそのよい例になります。
 教科や領域に価値を認めるという現実の枠組みに肯定的な先生は、先生だからできること、先生にしかできないことを学んで、実践してきたと思います。だれにでもできることだけをしていたのでは、もう先生ではありません。ましてや「総合」で扱う内容によっては先生よりも専門家のほうが教える材料や学ばせる材料を豊富に持って自由自在に使いこなせる場合があります。それでも、先生にしかできないこと、先生だからできることをわきまえておかなければなりません。
 では、先生にしかできないこと、先生だからできることはなにでしょうか。例えば、分からない、できないといきづまっている子どもたちに寄り添うことのできる先生は先生自身がそういう思いを経験しているかどうかが大きいと教育現場では語られてきました。よく理解できている先生、技能が優れている先生が優れた指導者になるとは限らないわけです。分かるように、できるように指導できる先生が先生なのです。
 要は、指導力があるかないかにつきます。それが最も端的に表れるのが「総合」の時間であり、「道徳」の時間になると思います。苦手意識を克服しないで、安易に好き嫌いで否定的になることは先生を辞めてからのことです。