読解力と「総合」
 PISAの2003年の調査結果では、読解力が14位と芳しくない結果が出てきました。2000年の結果と比べても明らかに国別順位は下がっています。ところが、問題解決能力、数学的リテラシー、科学的リテラシーについては何ら憂慮するような問題点が指摘されていません。読解力に関連する調査項目の気になる分析結果として、趣味で読書をしないとしている割合が半数あり、他国と大きな違いが出ていました。
 念のため引用しておきます。PISAの調査において読解力とは、「自らの目標を達成し、自らの知識と可能性を発達させ、効果的に社会に参加するために、書かれたテキストを理解し、利用し、熟考する能力」と定義されています。言葉の意味に付加された明確な目的を読むと、読解力の意味は分かりやすいと思いました。
 さて、どうして読解力だけが下がるようなアンバランスがおきたのでしょうか?
 読書を中心とした活字文化にふれる状況は緩やかな変化をしてきました。テレビからインターネットへとメディアが変化し、映像と音声にふれる時間が多くなったのは子どもも大人も同じです。その一方で、本を読まなくなった、本が売れなくなった、気楽な本はよく売れるといった現実があります。時折、本屋さんを訪れて棚に並ぶ書名をながめてみると軽いものが多く、手にとって中身を見てみたい本が少なくなりました。こんな状態がずっと続いていますから、読書離れと暇のつぶし方の傾向をつかめば、読解力に影響が出てもおかしくないと想像できます。
 もう一つの思い当たる節は教育現場やメディアにあります。3年前の指導要領の改訂に伴って国語の時間が減ったことは深刻な問題ではありません。ましてや、読解力=国語教育と結びつける発想は、あまりにも短絡的です。それよりも、私自身が変わってきたと感じるのは、言葉に対して無頓着な場面が多くなったことです。日常会話の言葉やメディアを行き交う言葉がずいぶん大雑把に、曖昧に使われています。言葉に対して厳密な意味や解釈を求めなくなると、読解することに重大な価値を見いだす必要も薄れます。読み下しの平易な言葉が増え、熟語を使わないようにすると分かりやすい反面、意味理解に力を使わなくなります。
 国語で時間をかけて細かく読み取りをしなくなったと受け止めている先生は、これこそ大きな問題点だと考えておられるかもしれません。以前から、テストをしても問題文が読み取れない、算数の文章題の意味が読み取れない。理科や社会の資料が読み取れないなどの声は教育現場でしばしば耳にしてきました。しかし、国語の時間に読み取りをきちんと指導すればあとは楽勝になるほど問題は簡単に解決できないでしょう。学んだことを他の学習でも繰り返し積み重ねて、生活全体の中で鍛えていくことで読解力は伸びていきます。そして、学んだことが、相互に機能的に働くことによって学力は伸び、生きる力となっていきます。
 読書によって子どもたちの知的好奇心をくすぐりながら、読解力を自ら鍛えていく場として総合的な学習の時間は大きな役割を果たします。教科の学習より役割が大きいと考える理由は、扱う内容が広範囲に渡っているところにあります。言葉の知的理解にとどまることなく読解力を鍛えるためには、あらゆる場面で意図的に指導できればいいわけです。理科や社会科などでは安易に言葉の知的理解に終わる心配が大きいと私は考えています。
 母国語が怪しいというとき、ついに小学校で英語科の導入が本決まりになったようです。弾みをつけて国際社会に通用する英語が大事という意見と、英語よりも危うくなった国語のほうが大事という意見が飛び交っています。目先にとらわれた教科の駆け引きで議論するよりも、問題点として浮かび上がった読解力の低迷をいかにして復活させられるか、本気で考えた方がよさそうです。