ピリ辛「総合」(3)
 通知表の「総合」の評価が記述式ならば、そこに書いてある文言からおよそ「総合」の時間に何をしてきたか判断できます。ところが、観点別の段階評価になっていると何がどうなっているか皆目見当がつきません。調査したことも、調査結果も見たことがありませんので、私が関わりのある範囲の情報に基づく予想です。記述式が圧倒的に多いのではないかと思うのです。理由は、観点別に段階評価をしようと思うと学年ごと、学期ごとに毎年観点を検討し、修正する必要が出てくるからです。
 これまで、3年生以上の通知表の「総合」を毎学期5年ほど見てきたことから、いくつかの傾向があると気づきました。ポートフォリオなどを活用して、きちんと学習の記録を把握している先生は、子どもの姿が見える評価をされています。同じようなことを一生懸命していながら、子どもに何を学ばせ、どんな力をつけていきたいかを明解に持たれていない先生は、何をしたかにとどまることが多くなっています。学びを深めたり、広げたりすることができなかった先生は、子どもが興味関心を持ったことだけに集中しています。子どもの学びの道筋がつかめていない先生は、ずいぶん大雑把な記述になっていて、同じ文言が多くなります。とりあえずそれらしきことをしたという先生にいたっては、数種類の文言をたらい回しにしています。
 冒頭で記述式ならば、何をしてきたかが分かると書きました。裏を返せば、「総合」の中身が充実している場合も、薄っぺらになっている場合も分かるということです。たった1、2行の文章で見透かせるわけないと思う先生がいるかもしれません。しかし、字数制限なしで書けば、すべての子どもについて詳しく書くことができると言い切れるのでしょうか。だらだら書けないとなると、普通、特に優れている事柄を選び、より適した言葉を選び書くことになります。先生が価値を認めていることが表面に現れます。つまり、第3者が読むと見透かせるわけです。通知表には事実に基づくことしか書けませんから、根拠を示せない言葉は使いにくいものです。
 「総合」の実践に困っている先生は、評価にも困っていると思いますがいかがでしょうか。教科の学習ではあちこちに目標が例示されています。目標を自ら作る苦労は研究授業のときぐらいです。ところが、「総合」の目標は毎度毎度、自分で作ります。そして、目標と評価が表裏一体になって授業実践が成り立っていきます。
 先生の専門性としての教材研究の方法が身に付いていない先生はさぞかし困るでしょう。先生自らが何を鍛えないといけないか、人に指摘されて気づくようでは遅すぎます。それでも、指摘されてから努力するのであれば、まだ救われます。言い訳だけで、何も努力しない先生はあらゆる面で苦労することになると思います。