ピリ辛「総合」(1)
 2年前の教育雑誌に次のような見出しが載っていました。

 いまごろ「総合」に疑問を持っているようでは現場を去ったほうがマシだ(小池俊夫 2003年8月号 教育ジャーナル 学研)

 どうして総合的な学習をしないといけないのかと考えておられる先生への警鐘です。先ほどの文部科学省の意識調査の結果からも該当する先生が現実にまだいると読み取れます。教育改革の流れに批判的になって、保守的な考えを維持したい先生、「総合」の進め方を勉強することが面倒くさい先生、乗り気でない理由をあげつらって本当に「総合」が必要ない理由が見つからない先生・・・。疑問を持っている先生といえどもいろいろでしょう。
 普通に考えたら、分かる勉強はだれしも意欲が湧き、楽しく、充実しています。先ほどの意識調査では、子どもや保護者にとって総合的な学習はかなりの割合で肯定的に受け止められています。受け手はいいと考える人が多いのに、いちゃもんをつける先生のほうが割合は高くなっています。分からない子どもたちの思いをきちんと受け止めてきた多くの先生方は、分かることをめざして勉強し、工夫してきたことと思います。分からないのはできの悪い子ども自身に問題があり、先生の教え方には何ら問題はないと考える先生は、もはや先生ではありません。先生と「総合」の関係は先生と子どもの関係にそのまま当てはまります。どちらの先生に主体性や、学びの意欲、生きる力があるか明解です。そして、どちらが先生としての仕事をしているか判断するのは容易でしょう。
 やる気のない先生が現場を去って、精鋭だけが残れば問題はいとも簡単に解決します。しかし、先生という職は、まだそういうシステムになっていないですからやっかいです。分からない子どもを切り捨てて、分かる子どもだけ相手にすることは子どもの学習権を奪うことになります。これはしてはいけません。同様に、やる気のない先生が自ら自分の意志で現場を去らない限り、一方的に切り捨てることはできません。
 行き着いたところが、教員評価の導入です。それを現場の先生の都合で後退させることはおかしいわけです。例えてみれば、売れ筋の商品をもうけが少ないからといって売らないようにしていくと消費者は黙っていないのと同じです。売ってやるという殿様商売は胡散臭いもので長続きしません。教えてやっているのだから文句を言わせないというのも長続きしません。来年度あたりから、居心地の悪くなりそうな先生は、覚悟がいりそうです。
 もう一つの解決策として、やる気のない先生の意識を変えるという方法が浮上します。どちらかというと、私はこちらのほうを期待してきたのですが、困難を極めます。これまた、変わるかどうかはその先生に委ねられていますから、歯がゆさは延々と続くことのほうが多いでしょう。分からないもどかしさ、できない辛さをついに先生自身が味わうようになれば、確実なきっかけが生まれると期待します。