総合的な学習のカリキュラム
 総合的な学習のカリキュラム、年間指導計画のあり方をめぐって、ひな形がメディア情報にたくさんでてきました。先手をいく情報が本当に指針になるかどうかを検討してみました。学習指導要領には年間の時間数と学習内容の制約しかありません。これを元に教材内容を配列し、ひとくくりの所要時間をふっているのは教科書出版業界の例示にすぎません。学習内容が多いから時間数をふやせばゆとりができるという主張は、一教科の全体的な内容と時間配分を検討した結果ではないと思うのです。教書会社の例示に沿って指導した結果、時間が足りないと言っている場合がほとんどでしょう。原点を忘れずに追求や批判をしていかないと目先の帳尻あわせだけが話題の中心になります。
 総合的な学習の時間は年間時間数は制約されましたが、学習内容は大まかな指針しか例示されていません。学習を構築していく自由があるのですから、内容や時間数を目安として組み立てていくことは、教科書会社がやっていたことを先生がすることになってしまいます。子どもとともに創造していくおもしろさを存分に生かすことを考えたいものです。何を何時間するという計画の主導権は先生にあるとしても、「しなければならない」という制約はないわけです。
 実践が順調に進むと実践結果をまとめていく過程でカリキュラムは形作られ、メディア情報にのせられます。それ自体はなんら役に立つものでもないし、これから実践していく手がかりともならないものです。しかし、間違いなく読みとってほしいことは、どんな投げかけから、どんな問題解決なされ、どんな課題に個々の子どもたちが取り組んだのかという点に限定すべきだと私は考えています。
 これからカリキュラムをつくっていくとしたら、次のような構想を描くことになるでしょう。「福祉」という一つのテーマを設定したら、そのことに興味関心をいだかせることのできる投げかけの活動が導入されるでしょう。そして、その活動を通してでてくる子どもたちの見つけた問題点や活動を広げる考えをもとに、次なる活動を組み立てることになります。
 「投げかけの活動」からどのような広がりを展開することができ、どんな課題を解決していったかをまとめた計画こそ役に立つわけです。時間数は前もって割り振ることもできませんし、結果的に何時間かかりましたと記録しても指針にはなりません。個人個人の学習量も異なるのですから、一人一人がプロセスを記録して残しておかないと、学年が変わっても継続的に積み上げることができません。個々の子どもと先生が共有できる年間を通しての計画と記録があれば理想的だと思うのです。ポートフォリオの手法はそういう点ですぐれているでしょう。
 時間の制約から逃れるためには、子ども自身の時間の使い方が長期休業中に生かされるとすばらしいでしょう。1学期の実践が軌道に乗っているとしたら、夏休みに入っても何らかの継続的な活動が期待できると思います。もし、従来通りの先生主導型で1学期を乗り切ったとしたら、休み中は完全に中断してしまい、2学期から巻き戻しをしながら先生が引っ張っていくようになるだろうなと予想しています。