総合的な学習の時間削減!?
 大臣の発言によって賛否両論が話題になっています。
 上智大学の加藤幸次教授は1月15日付の朝日新聞で「じっくり真の思考力を育め」と、わかる授業、楽しい授業を提唱しています。土台には基礎・基本のスキルアップと主体的な学びの考え方があります。同日の地方紙で京都大学の西村和雄教授は「学力低下の現実を認めず、政策を転換できなかったことで対策が後手に回った」と指摘し、少人数指導、教科書の充実、授業時間数の拡大を提案しています。


 私も含め、総合的な学習の時間を維持したいと考えている先生方は、これまでの実践で成果を上げ、手応えを感じておられることと思います。そして、確実に学びを育てることが子どもの将来を保障する力になると確信しているのではないかと思います。

 10年のスパンで大局的に教育のうねりに刺激を与えてきた学習指導要領も、ここ最近、世論の動向に敏感に反応して細切れで軌道修正を重ねてきました。修正の根拠にしてきたのは学力低下論です。学力の定義がまちまちなのに、順位が下がったことだけをことさら強調して、不安を煽っています。日本の教育政策は世界的レベルの中で自信を喪失しているのでしょうか、と問いたくなります。
 大学教育から見た学力低下論は、ここ最近の話ではありません。共通一次からセンター試験へと移行していく15年前、入試科目減らし、大学教養部の廃止再編などをくぐって大学生の学力低下が問題にされてきたことは一部の大学教授の論評から明らかです。時期を同じくして、「ゆとり」をキーワードにした教育改革で学力観を変えていく学習指導要領が示されました。これら一連の改革がまずかったのかどうかは判断しにくいところがあります。初等教育から大学教育にいたるまで、相互に関連してまずいことになっているという実証はまだできていないと思います。

 まず、主要教科という括りは適切でないかもしれませんが、「ゆとり」という名の下に主要教科の時間数が削減され、内容が精選されたことによって学力が低下するという主張があります。
 では、時間数が最大に膨れあがった昭和40年代は最大の学力が得られたと言えるでしょうか。現在の30歳代後半から40歳代後半の方々です。この年代に優れた学力の持ち主が多いと断言できる根拠は見つからないでしょう。逆に問題点を提起するなら、家庭教育の後退が最も顕著に出始めた世代だと私は思っています。子育てをする段階になって、子どもたちへの過剰な関わりと極端な放任が増えてきた時期と重なってきます。
 学習時間と学力の相関はごく一部の能力をとらえたときのみ有効な結果が得られます。そこでは、生きるための総合的な学力は問題にしていません。ですから、学ぶことに必要感を感じた明治時代は教育の機会均等こそ保障されなかったものの、学ぶ時間の多寡が生きるための学力に大きく影響し、後世に名を残す著名人を多く輩出したと考えられます。
 教育の成果は20年、30年という長いスパンでとらえていかないと見えてきません。それでも、成果の全貌をとらえることは不可能でしょう。教育制度が異なる中で、国ごとに学力観が異なる中で調査結果に一喜一憂するのはおかしな話だと私は思うのですが、皆さんはいかがでしょうか?

 次に論議されなければいけないのは教育の目的です。どなたが述べられていたか記憶が途切れています。日本の教育制度は国のため、会社のためになる教育をしてきたと主張する方がいます。教育の目的は人格の形成であると大きな看板を掲げているのだから、自分が生きるために教育を展開するのが本来の姿だという考え方です。
 例えば、現在取り沙汰されつつある英語学習は上記の二つの考えに揺さぶられやすい面を持っています。地球規模(グローバル)という看板を掲げて英語を是非教えようというする動きは、国にとっても企業にとっても好都合な動きです。ところが、個人の生き方から英語学習の必要に迫られる人は限られてくるでしょう。結局は、やらないよりはやった方がいいという流れになっていくだろうなと思うのです。英語学習の本質に辿り着かないまま進む心配があります。

 教科の枠組みを見直す、学習時間数を見直す、学習内容を見直すというのは個人が学ぶに当たってはどうでもいいことで、単なる目安でしかありません。何をどう学ぶかは最終的に個人が判断し選択してきたと私は理解しています。教える内容や授業の時間数の目安は受け身の基準ですが、現実の個々人の学びは個人が判断し選択してきたと思うのです。学校で教えなかったから問題なのではなく、学ぶ機会を得なかったことの方が問題です。例えば、侵略の事実を教えなくても、興味があれば侵略の事実は学ぶことができます。興味関心を自ら広げる力があれば可能なことです。
 学校現場にいて、漢字の読み書きの力、言葉の意味を理解する力、計算する力、知識量が低下している子供が増えたことは否定しません。そうした力を再び伸ばすために学校現場が何をしなければいけないかを明確にすることは容易なはずです。内容を増やしたり、時間を増やすだけでは解決しないと思いますが、いかがでしょうか?
 100ます計算や読書がもてはやされるのは、子どもたちの落ち込んだ力を手軽に回復したい即効薬と受け止める先生がいるからです。これまたお粗末な小手先の手段にとどまりやすく、本質部分に辿り着けません。要は、あらゆる教育活動の場面で、子どもたちに対する負荷の与え方が低くなったのです。100問の漢字テストと10問の漢字テストで先生が要求する得点は同じだと思うのですが、現実は怪しいです。すべて書けてOKなのに、たくさん問題があるから100問なら80点でOKだと考えてしまう先生がいるようです。習得のために要する時間は個人差があっていいのですが、100問すべて書けるように要求する負荷は変えられません。

 ここ2年間、学力向上フロンティア事業にかかわってきたことから言えるのは、実践的な先行研究の成果を生かして先生が工夫をしていく元気があれば、確実に子どもも元気が出ているということです。総合的な学習の時間も同じことです。子どもたちに元気が出ない原因を現場以外に求めることなく、実践を通して元気の出る子どもを育てるのが一番だと私は考えています。
 学校は学校としての機能を果たし続けています。マスコミで取り上げられない学校現場の大きな変化は、子どもに要求する負荷基準の低下と考えますが、いかがでしょう?