総合的な学習に通じる授業
 12年前に登場した「新学力観」のときと同じように「総合的な学習」も、ふだんの授業が変わらなければいけません。
 「新学力観」のときは、学力をどうとらえなおすか、通知表はどうあるべきかなど理屈と形式ばかり論議されていました。授業の中身は大きく変わることなく「留意点」が「支援」に変わった程度でしょう。挙げ句の果てには「新学力観は教室の入り口で止まっている。」とささやかれていました。こんどは「総合的な学習が学校の外で一人歩きしている。」と言われかねません。
 「総合的な学習」のスイッチを入れただけで子どもたちの学習の仕方が変わるなら問題ないのですが、決まり切ったことを学習しなさいと言うスイッチと学習したいことを学習しなさいというスイッチは残念ながら一つにまとめられません。決まり切った学習には、必ず理解できたかどうかという結果がつきつけられます。学習したいことを学習するときは、カリキュラム的なものを提示しないのですから、途中途中の結果はあってもやっていることは連続的です。つまり、結果が見えにくい学習を定期的に実践しないと、先生の意に添った結果を生み出す子どもだけが、学習をしていることになります。
 あちこちの実践や有識者の中には、学校独自の総合的な学習のカリキュラムと到達目標を設定することを主張しているものがあります。年間指導計画も取りざたされています。形式から変わっていく方法は、私は納得できません。カリキュラムも目標も指導計画もすべて実践抜きで作ることが可能だからです。きっと真剣に考えている人は、そんなことはしないだろうと思います。
 どんな授業の例がいいか振り返ってみた中で、あらためて「オープンエンド」の考えを取り入れた授業が楽しいと思います。算数・数学の世界では、問題に対する答えは常に一つという常識を小学校1年生からすり込まれていきます。「こんな問題もできんのか」という脅迫まで簡単にたどり着くことができます。
 完全なオープンエンドの問題は2次方程式や連立2元方程式に適合する問題を作ればいいでしょう。面積24平方メートルの長方形があります。縦と横の長さは2メートル違います。縦と横は何メートルでしょう。答えは1つではないという常識を破ればいいわけです。変則的には、順列組み合わせの問題の途中経過を答えとすれば、答えは1つではなくなります。リンゴとミカンと梨の中から2つを選んで渡すとしたらどんな組み合わせがあるでしょう。
 一方、オープンエンドの考えに近いものを、論理数学の世界に当てはめると、日ごろ何気なく見ている問題が奇妙に見えてきます。「にぎやかな町に住みたいですか?」「しずかな田舎に住みたいですか?」という二者択一らしき問題でディベートをしたり、個人個人の考えを書かせたりする問題です。「町に住みたい」「町に住みたいが、田舎には住みたくない」「田舎に住みたいが町には住みたくない」「田舎に住みたい」「町にも田舎にも住みたくない」「町でも田舎でも住むのはどこでもいい」厳密に分けると6通りの考え方があるわけです。○×の問題はコンピュータと同じで真偽を前提に真偽を問うているわけです。正しいとはいえない、かといってまちがっているわけではないという曖昧さは考えないことにしてしまっています。三者以上から択一する問題を設定しない方がいい理由は考えを分類するのが大変だからです。
 学習の仕方や考え方は教え込まないとどうにもなりません。基礎的・基本的な指導内容にすぎません。ふだんの授業の中で培った学力が総合的な学習で生かされるはずです。この部分は子どもに対する先生の信頼です。