毎週教科が固定した時間割が何十年も続いたおかげで、頭の切り替えと柔軟な判断が必要とされています。時間割の変更は、これまで行事や出張用務等で行われていたのですから、あまり深刻に考えることはないと思います。時間割編成を行う教務主任の立場からすれば、一抹の不安は残るでしょう。ただ、何時間費やしたかという記録はとらないといけません。年間の授業時数が決まっている以上、学習の内容や密度を問題にするだけでなく、目安となる総時間数で先生自身の経営評価を縛っておくほうがいいと考えられます。その理由は、どんな教科でも時間数をたくさん費やせば、いい授業ができるというものではないからです。限られた時間数で密度の濃い学習ができれば一番言い訳ですが、年間1000時間もそんな授業をすることはどんな実践者でも「できる」とは言わないでしょう。適度に息抜きや脱線があるのも人間的な営みと私は考えています。
弾力的に扱うことの意味を誤解すれば、「適当に、そこそこに、いい加減に」ひいては「うやむやに」すませることになります。時間数だけにこだわって厳密にカウントすればいいというものでもないでしょう。心の教育を叫んで、道徳時間の実施時数を全国調査するなどなんの意味もないことで、言い訳の材料にしかすぎません。
例えば、料理の世界で考えると「待たせるけどおいしい」「早いけど味はいまいち」「早くておいしい」「待たせたうえにおいしくない」などのいずれでもないでしょう。メニューに見合った「程良い待ち時間と絶妙の味」がプロの料理人の腕の見せどころです。腕の見せどころが先生にとっても大切な部分です。