総合的な学習と地域素材
 地域に出かけて自分の五感を使いこなしながら学習のための素材探しをしている先生は多いと思います。そんな中で、問題が見つからないため、出かけるだけで終わってしまっているとぼやいていませんか。問題意識を持つことができない子どもの素質にひっかかっていると悩んだりしていませんか。
 最初から子どもたちが好奇心に駆られて「ふしぎだなあ。どうしてなんだろう。」と問題意識を持つことはあり得ないと思います。いや、そんなことはないうちの学級の子どもはかなりの割合でそういう見方、考え方ができる、と言えるならすばらしいことだと思います。現在の教育内容を平均的なレベルで学習していたら、そんな子どもには育ちにくいと私は考えています。「できる。」と言える学級がどのようにして育てられたのか、その足跡を少しでも理解するようにしたら、一つの手がかりが見つかるのではないかと思います。残念ながら「こうしたらよい」というマニュアル的な実践は紹介できないことでしょう。私はしない方がいいと考えています。
 学習の仕方を訓練して欲しいのです。例えば、九九の練習や漢字練習は二通りの考え方があります。理屈は後からでも興味がわいたときに学習できるから、まず丸暗記という方法があります。理屈や意味などを総合的な情報として覚えさせたいという方法がもう一つの考え方です。学校現場では、多分後者の方法が圧倒的に多いと思います。ところが問題意識を持って、課題を持つということは考え方の練習をしなければならないのです。具体的な場面で、先生の考え方を模倣しながら、自分自身の独自のものの見方を訓練していくのです。
 私が学びのモデルを提案している根本的な理由はここにあります。子どもに何を訓練させたらよいかを知らない先生では、「できない」のは子どものせいになってしまうおそれが多分にあります。高校生になっても九九ができない、問題の文章が読めないという子どもが何パーセントかいることに危機感を感じないのは「子どものせい」にしているからだと考えられます。
 本題に戻って、先生が地域素材に目を向けようとしたら、地域を知らないと話になりません。「同和教育は足でかせぐ」と久しく語られ、今は影が薄れた言葉になるようですが、「地域素材の総合的な学習は足でかせぐ」ということがぴったりだと思います。そして、地域を知る過程で問題を見つけられる先生のセンスが求められることになります。
 日々生活している中で、そこに在住している人は、どんな地域であっても「誇り」「よさ」「自慢の種」など多くの自信を持っているのが普通です。それがない地域は過疎化によって人が住まなくなっている原因の一つとも考えられます。最初から「誇り」や「よさ」があるのではなく、そこにすむ人たちが「不都合」や「不便」を生活課題として解決していった道筋があるからこそ自信になっていると思うのです。「桃源郷」は最初からそこにあるのではなく、作り上げられたものだと私は思います。
 しかし、地域を外から見ている人は「こんなところによく住むんだなあ」と失礼な発言を平気でするのです。自己中心的な価値観で見てしまうと、地域素材を学習にまで組み立てられません。つまり、考え方の訓練と先生自身の多様な価値観を認める寛容さが鍵になると私は結論づけます。くれぐれも「子どものせい」にする考え方は、先生が乗り越えるべき一番大きな課題といえます。かくいう私も時として「しまった」と思うことがあるわけです。「謙虚にいこう」というお題目を実現するよう努力したいのです。