未だに総合が・・・(2)
 No.150に続いて、さらなる問題点を掘り起こしてみたいと思います。
 気になるのは、総合的な学習の時間に学びの創造を仕組む前に、学級経営の土台として、自ら学ぶ子どもを日常的に、かつ、意識的に育てようとしているだろうかということです。
 このことは、学校の組織的な動きを総括的にとらえていける先生が少なくなったということと大きく関係していると私は考えています。先輩諸氏の旗振りに応じて、自分の割り当てをそつなく、精一杯やり遂げればよかった時代をくぐった先生が増えたからです。学校という組織の中で管理職以外に総括的に物事が見えないといけない先生は、教務主任、生徒指導主事、保健主事、研究主任、特別活動主任など学校全体を動かしていく機会が多い分掌になります。こうした要が弱体化するとモグラたたきゲームのような方法で組織の安泰を図るようになってしまいます。逆に、学校全体の動きを自分の指導内容と照らし合わせて組み立てることができるならば、日常の指導内容を相互の連鎖として総括していくことができます。長い目で見ると後者の方が問題行動は起こりにくくなります。
 さて、総合的な学習の時間だけ、自ら学ぶ子どもを意識したり、課題解決的な学習を取り入れたりするようなことはあり得ないと思います。できる限り多くの場面で、教科や領域を問わず指導機会を伺って仕組んでいかなければ、めざす子どもにはなっていきません。その場その場を乗り切る体勢よりも、長期的なビジョンを持って指導に当たっているかどうかが問われています。
 別の面から切り込むと、時間数の削減が学力低下の引き金になると騒がれ、俄に学力向上フロンティア事業が展開されたこととも関係してきます。基礎的、基本的なことを確実にということと、読み、書き、計算=基礎ということはとらえ方に大きなズレがあります。対症療法的に読み、書き、計算の力をつけるだけでは子どもの学力向上にはつながりません。やはり、読み、書き、計算が確実にできることで、自信と楽しさが培われますから、一歩前進してもっとやってみたいという発展的な場面を用意していかなければなりません。いくつかの土台をきちんとしていくことで、他の場面における土台も確実になるのは、子どもの意欲面に働きかけることが増えるからです。つまり、指導内容を総括的にとらえることができるならば、先生にとってあれもこれも指導しなければならないということにはなりません。AをめざすためにAをひたすら指導するのではなく、Bを丁寧に確実に指導していくことでCにも波及し、Aにも辿り着いていけるようになるという総括的な指導方法の理解をしておくことです。
 以上のような対症療法的、場当たり的な指導方法を総括的な指導方法に転換していく手法は目新しいものではありません。人権教育、生徒指導、特別活動ではごく普通に行われてきたことです。ただ、行事をこなすだけとか、時間数をこなすだけのために形式的にすまされる弊害は否定できません。この部分を冷静に振り返って、意識的にめざす子どもを育ててきたか見直してほしいと思います。「差別はいけません。」「いじめも差別です。」と子どもに言葉で伝えることはだれにでもできることです。伝えることで教えたことにすり替えるのは素人のすることです。差別的な言動は、特別なものではなく、日常的にどこにでも起きることだという認識が先生にあるならば、あらゆる場面をとらえて人権教育は進められるでしょう。これが「差別は許さない。」という総括的な指導方法です。
 「人は一人ひとり様々な面で違いがあります。自分と違っていても違いを認めなければ、相手を尊重したことにはなりません。」と子どもたちに伝える場面は珍しくありません。ところが、不登校や保健室登校の子どもたちをさして「何で、好きなことだけしかしないの?特別扱いするのは不公平だよ。」という意見が出てしまいます。根底にねたみ差別が見え隠れしていると思うのですが、読者諸氏はいかがでしょうか?