総合的な学習のすがた
 総合的な学習を構造的にとらえようとするとき、同和教育や人権教育の姿を論議するときと同じようなイメージが見えてきます。
 例え方はいろいろあるでしょうが、私の思いつきで説明するなら、教科の学習は単線の線路みたいなものです。出発点があり、経路はいくつかあっても目的の到達地は決められています。総合的な学習は、東京や大阪の中心部の地下鉄、JR、私鉄各線の路線図みたいなものでしょう。出発点は似通ったところに複数あり、経路は数多くの選択肢があり、必ずしも一つの駅にたどりつくとは限らないような網の目構造を持っています。経路の途中で、異なった路線が交差することもあります。別々のことをしているようで、一人ひとりの子どもの活動の全体像を見ていると、子ども同士で接点がいくつもあるのが特徴です。
 同和教育、人権教育、健康教育、福祉教育、ボランティア教育、環境教育、国際理解教育などなどいくつかの教育カテゴリーが出現してきていますが、構造は基本的には同じだと考えます。何が違うかというとそれぞれの教育カテゴリーで「こんな子どもを育てたい。」という基本理念がカテゴリーのねらいに合うように設定されているのです。人権教育ならば、差別のない人権が尊重し合える人間を育てることにあります。健康教育ならば、自らの健康を維持するために生活習慣を形成できる人間を育てることにあります。
 では、総合的な学習はということになるとちょっとだけ事情が違ってきます。「こんな子どもに育てたい」という基本理念の枠組みが取り払われていると考えればいいのです。つまり、先生が基本理念を創造しなければなりません。文部省が提唱する「生きる力」という枠組みは抽象的な理念です。各地の当を得た実践を寄せ集めていくと「これこそが生きる力なんだ」という姿が見えてくるわけです。
 研究発表会があるからという動機付けではない、本来の目的に添った教育カテゴリーの中で研究実践が積み上げられているならば、あえて総合的な学習といわれなくとも名称のすり替えだけで、大きな変化はないと思います。
 これまでになかった教育カテゴリーの創造も可能なわけですから、地域を生かした学校独自の基本理念が求められています。学校としてのビジョンがあれば、描きやすい思います。そのためにはリーダーシップのとれる実践家の人材が校内に一人以上いなければなりません。
 しつこいようですが、以前から主張している「教えること」「学ぶこと」に対するプロの教師としての正しい認識と実践力は不可欠なのです。