学びの素材案「食育」
 No.136で家庭科の吸収合併の話を提供しました。食事という観点で総合的な学習の時間に取り込んでいくとき、いわゆる「食育」という部分だけに焦点を当てやすくなります。しかし、「食育」の範囲は健康保持のための食べることへの学びだけに終わって欲しくないと私は考えています。
 食べることの過程の中で、ゴミの排出、燃料の使用、水の使用など環境に影響を与える問題が必ずつきまといますから、食料生産とあわせて消費生活の意味をとらえていくきっかけにしたいのです。
 最近の話題、政界のトップが知育、徳育、体育に加えて食育の必要性を語っていました。学校現場で食育を担っている教科・領域は社会科、理科、家庭科、保健学習、学級活動と給食の時間に扱われる給食指導などが考えられます。これらを相互にリンクさせて、食生活の乱れから生じる問題を解決していこうというのが順当な考え方になるでしょう。そのために、養護教諭や学校栄養士を指導者に移行できるような規制緩和が行われてきました。
 しかし、現実はマスメディアによる断片的な知的情報のおかげで、サプリメントという横文字の栄養補助食品が横行し、病気への危機感だけを煽ることが増えてきました。基本的な食育が消滅した家庭では、商業主義にのせられた食の請負に依存しているという現実もあります。包丁もまな板も必要ない、鍋さえもいらない食生活は異状としかいいようがありませんが、現に当てはまる生活者がいます。
 このような情勢の中で、学校現場が危機感を煽り、価値観を押しつける食育をしていたのでは、豊かさの展望がありません。食育の原点は自らの生産労働と調理によって得られるものであり、依存の極限は食べるだけの生活者を意味しています。では、どんな学びの素材を考えていけばよいかということになります。
 一番大切にしたいのは、体験活動を複合させるという考え方です。食材を育てて、味わうことは普通の考え方ですが、調理の際に出るゴミについて追求したり、燃料を身近な材料に求めたり、調理道具を工夫したりすることで簡単に体験活動は複合していきます。生活の中で当たり前に思っている道具を用意しないことで、問題解決場面はいくらでも設定できるでしょう。包丁がありませんがどうしますか。ガスコンロがありませんがどうしますか。マッチもライターもありませんがどうしますか。ゴミ箱は用意していませんが、どうしますか。鍋がありませんが、どうしますか。意図的に活動を中断して、段取りを調べ、代わりの方法をあみだそうという投げかけです。
 海に近い地域では、調味料の原点から出発することも考えられます。単発的に塩づくりだけを体験して、終わってしまうようでは話になりません。塩から連想できる学びの素材は広範囲にわたりますから、必ず複合した体験を仕組むことが肝心です。調味料としての塩、保存食品の原料としての塩、生命維持に必要な塩、生活習慣病を引き起こす塩など、総合的な知識が要求される素材としてとらえることが可能です。
 食育を総合的な学びにしようと思うと単発的な教科や領域の学習ではできないということです。何をどの教科・領域で取り上げるのかという問題より、時間的な問題の方が大きいでしょう。強引に取り組んだとしても、ばらばらに取り上げたことをどの時間で統合していくかという問題にぶつかります。このような問題を回避するためにも総合的な学習の時間を軸にして、関連する教科・領域を集中的に取り込む計画をすることが望まれます。

 以上のような話題を突き詰めていくと社会科、理科、家庭科の独立した教科としての時間はゆらいできていることがお分かりいただけると思います。教科をなくするのではありません。教科の名前が消滅していくという考えだけです。学ぶ内容は、それぞれに優れたものがありますから、どんな場で設定するかというだけのことです。ただ、消滅させられる内容が出るようであれば、おおいに論議しなければならないと思います。