総合的な学習への意識のずれ
 文科省が実施した意識調査の中で、気になる結果があります。「総合的な学習の時間」で希望する(心がけている)授業の設問の結果です。保護者と先生に問いかけた9つの授業内容について、「そう思う」、「どちらかといえばそう思う」の項目に上がった数字が大きなずれを示しています。それぞれの抽出した集団が3対1の割合とはいえ、保護者と先生の不安と期待が逆転しており、現実を正直に反映しているのではないかと思いました。自分の生き方、地域社会の一員、国際理解をテーマにした授業では「そう思わない」が2対1になっていますが、「どちらかといえばそう思わない」、「そう思わない」は実数的には大差ないと考えられます。
 保護者の方が「希望する授業」に対して「そう思う」と答えた割合が先生の「心がけている授業」に対して「そう思う」という割合のほぼ2倍になっている意味はなんでしょうか。
 学校現場では一つのテーマに対して複合的な授業内容を想定していることが多いと考えられます。以下に要約して再掲した9つの授業内容は授業の方法的な内容と主題内容に分かれていますから、先生の判断が曖昧になったともとれます。

(1)情報収集、まとめ方、調べ方を身につける授業。
(2)自分の考えを発表したり、討論したりする力を身につける授業。
(3)興味関心を引き出し、自発性、主体性を大切にする授業。
(4)横断的、関連的な授業。
(5)課題解決学習をする授業。
(6)働く人々とふれあって自分の生き方を考える授業。
(7)地域学習、ボランティア活動を通して地域の一員を自覚させるような授業。
(8)国際社会の一員としての資質や能力をはぐくむような授業。
(9)自分で課題を見つけ、探求活動をする授業。

 しかし、保護者の判断の方がより好意的にこれらの内容を望んでいるとしたら、先生の判断に曖昧さが出た原因は別のところにあると私は考えています。総合的な学習の授業実践はしているが、授業の計画的なねらい、めざしている子どもの姿が説明できるように明確になっていないのではないかと予想します。一連の授業を通して、子どもたちにこんな力をつけたい、こんな考えを積み上げさせたいという、先生の意図的なねらいが考えられていないか、もしくは曖昧にしているのではないかと思うのです。
 体験や活動で終わってはいけない、総合的に関連的に学ばなければいけない、自ら課題を解決させなければいけない・・・などの歯止めだけが論議されて、肝心の子どもにとっての到達目標が、子どもに理解できる言葉で用意されていないという問題点です。
 この問題点が年間指導計画を作成しないといけないという分析結果として公表されたわけです。実践研究の立場から分析すれば、年間指導計画の作成で問題が解決できるとは思えません。形式的に作成した安易な計画であっても、計画が作成されていることになります。これは、教科の年間指導計画が学校独自に実用的に用意されていない場合が多いことからも予想できます。
 授業のねらいを明確にした年間指導計画ができているならば、何ら問題ありません。授業実践の現場に突きつけられているのは、形式的な年間指導計画を整えることではなく、授業のねらいを明文化することです。教科のように指導要領によって指導目標が明示されていない総合的な学習の時間ですから、授業を創造する原点に立ち返って実践することが要求されます。
 そして、授業のねらいを明確にした目標や学習内容を先生だけでなく保護者や子どもたちにも公表することで、指導要録の評価、通知表の評価も納得のいく分かりやすいものとなります。

 授業の中身に対する意識のずれは、何も総合的な学習の時間に限ったことではありません。先生の授業に対する理解の程度によって、実践される授業の中身は目標にそったものになったり、ならなかったりします。明文化された指導案があっても差が出ているのが現実の授業実践です。もし、学習活動だけを計画した授業が行われた場合、授業者の意図が授業を受けている子どもたちや授業を見ていない人たちに正確に伝わっていかないことは容易にお分かりいただけると思います。