突然全体計画作成
 総則作業部会の報告を受けて、何らかの対策が指示されそうだと思っていましたら、案の定、予想が的中してしまいました。現場に任しきれない不安から小手先の指令を全国に発してどれだけの影響力があるのか疑問に思うのは私だけでしょうか。 
 企業でトップの指針が示された後、思うように業績が上がらなかったら、一番にすることは原因追及のはずです。原因がいくつか見つかれば、そこに潜む問題点を分析して、解決に当たるのが末端の役目になります。トップは原因となることを解消するための手だてを的確に判断して示さなければなりません。トップが間違えると確実に会社は衰退の一途をたどり、つぶれてしまいます。末端の努力する社員以上に、トップの判断責任は大きいわけです。
 方針が理解されていない、形だけ取り入れている、趣旨からはずれたことをしている・・・こうした実態がなぜ出てくるのかをきちんととらえているとは思えません。現場をつぶさに見ることなく、現場からの声を集約することなく、逸脱するなら、理解していないなら、そうならないように計画を立てなさいというのが、今回の国の考え方です。学校裁量の時間、生活科の定着を図るためにとってきた施策と相変わらずのことをしています。
 全体計画や年間指導計画を作ったら、総合的な学習の趣旨にそった実践ができるという理屈にはかなり無理があります。危機管理マニュアルを作ったら、危機管理ができるとはいえないはずです。総合的な学習が着実に実践できている学校もそうでない学校も、全体計画を作ることで趣旨にそった総合的な学習が展開できるとは考えていないでしょう。
 これまでに私は、先生が指導力を高めることや学ぶための指導観を持つために先生自身が意識を変えなければならないことを提案してきました。このことをもう少しかみ砕いてみると、先生の学力が低いということにいきつきます。昭和40年代に義務教育を受けている現在の中堅とよばれる先生は、知識理解の多寡、技能の優劣を中心にして選抜されてきた経緯があります。きちんと高等教育機関で学問の方法を学び取った先生もいますが、割合としては少なくなっているように思います。偏差値に固執する価値観の中で、学力そのものにも偏差が生じていたのではないかと推察します。
 先生の学力が低いということは、能力が低いことを意味しているのではありません。最も大切にしたい能力、つまり創造力に欠ける、創意工夫に欠けることを指摘したいのです。困難な問題に直面したときに限らず、自分の課題を解決していくときにも必ず要求されるのが創造力、創意工夫なのです。指示されたことしかしない、指示されたことさえもできない、問題点に気づかない、一見前例主義におちいっている計画の立て方、今までと違う取り組みを提案できない、実践を真似するだけで自分のものにしようと努力しない、白紙から企画を作ることができない・・・すべて創造力、創意工夫の欠如によるものです。
 私自身のことを例に出します。私はこれまでにパソコンの公的研修会には一度も行ったことがありません。民間企業が行った脈絡のないパソコン教室に1回だけつきあったことがありますが、講座を受けたことはありません。すべて使用説明書とパソコンを扱っている多くの方との情報交換のみで扱い方を身につけてきました。偏差のない学力を身につけていればだれにでもできることだと思います。興味関心があるからできることだという先生がいますが、それは間違っています。興味関心がなくとも必要を感じた人は、学力さえあれば使いこなしています。
 もう一つの誤解は、高い学力=優秀な成績にはならないことです。まだまだ評価はそこまでたどり着いていません。創造力や創意工夫が注目されるような評価になれば存在感は飛躍的に伸びるでしょうが、数値化が困難な評価故に先生の主観的、直感的評価に終わっています。田中さんがノーベル賞を受賞して一躍話題になりました。同じことだと思うのです。学校現場でも創造力や創意工夫された活動が日常的に評価されなければ流れは変わらないでしょう。トップに立つ人、全国の学校に影響力を持つ人がそのことを強調しなければ大きくは変わりません。学力向上、これは子どもたちだけの問題ではないのです。先生も官僚も学識経験者もすべて問題にしないといけません。