総合的な学習のスタート
 誰が切っても同じ絵が出てくる金太郎飴の世界からいよいよ脱出です。今までやってきたことだから、よそでもやっていることだからと安易に過去の事例を繰り返しても入り口は見えないでしょう。「ケナフの実践があちこちで行われているし、ちょうど学校での栽培場所も十分な面積があるからうちでもやらせてみようか。」これでは、どこまで子どもを先導し、どこから突き放すか不明です。
 かつてエイズ教育の実践が急速に騒がれたころ、まちがった情報が教え込まれたことがあります。教育実践の場で一方的な情報を元につまみ食いしたらとんでもないことになることを端的に示しました。今では、エイズの恐ろしさと危険性を教える先生はいないと信じています。
 まず、スタートを切るに当たってチェックして欲しいことがらがいくつかあります。
 1 学級崩壊がない。すべての学級で授業が成立する。
 2 いじめや不登校には的確に対応して、放置していない。
 3 怒鳴り声をあげる先生はいない。
 4 一人一人の子どもの疎外要因を把握し、差別を解決しようとしている。
 5 実施計画案を常に謙虚な態度で改善しようとしている。
 この内の1つでも当てはまるようなら、総合的な学習をスタートさせるどころではありません。なぜならば、枠にはまらない子どもを疎外するように批判し、保守的な指導方法に固執し、指導力を磨こうとしない先生の存在が見えてくるからです。これが、学校という組織集団のいけない部分です。権力を行使して、抑圧で子どもをおとなしくさせても、爆弾を抱えているようなものでしょう。
 当てはまる学校は、人権教育を再構築し、個を尊重した指導法の確立からスタートすべきだと私は考えます。
 上の条件をクリヤーするためには、ハードディスクをフォーマットしなおすというような簡単なことではありません。プログラムファイルとデータファイルを綿密に分類して、誰でも使えるようにするぐらいの大変な作業になるでしょう。
 同和教育を長年やっているといいことがいっぱいあると同時に、どうして先生は保守的で、見栄っ張りで、頑固で、自尊心が強くて独善的なんだろうとあきれることも多々あります。
 自分の課題を謙虚に受け止め、失敗やうまくいかないことを他人のせいにしないで、自力解決していく資質は、まさに総合的な学習が求めている力でしょう。そんなこと教育課程審議会や文部省に指摘されなくとも自分で理解していないといけないことだと思います。
 どのように構築するかは我が校でもかすかにしかみえません。でも、上の条件はクリヤーして、テーマを探し、課題になりそうなことを模索していけそうです。