学習課題と学習問題
 学習課題と学習問題は「No.99課題と問題」で書いた延長線上にあります。指導案の中で吟味されないまま使われている事実は、岡山大学教育学部 黒崎先生の話を聞いて納得するところがありました。導入部分で「本時の課題をつかむ」と記述された指導案に出会うことはよくあることです。この課題の意味するところは、子どもにとっての課題になっていないという指摘です。つまり、先生が用意した問題を提示して、それを解決しないといけないと子どもが受け止めれば、提示した問題は子どもにとって課題となるという考え方です。これはこじつけです。先生が用意した問題は、子どもにとって解決したいという「めあて」に過ぎません。子どもにとって解決の必然性がある課題とはなりません。
 先生が用意した課題というのは、教科の学習においては学習問題といったほうが当てはまります。学習を進めるために教材の中から問題を設定して取り組ませるわけです。解決の方法や手がかりに気づいている子どもたちは、解決してみたいという欲求に駆られて取り組むはずです。1時間の中で解決すべき問題を提示して、これが子どもにとっての学習課題であると定義するには無理があります。
 総合的な学習で、いきなり子どもに課題を持たせるのは難しいから、よく使われる手が課題になりそうなものをいくつか用意して選択させることがあります。自分にとっての課題がどんなものになるかをつかませるのには有効な手段です。しかし、いつまでもこの方法から抜けきらないとしたら、課題をつかませる場面設定がされなかったことになります。何も手だてを設けないで、課題らしきものを押しつけていれば、やがて課題を持つようになると期待してはいけません。
 総合的な学習では、体験や探検をする中で、疑問に思うことを問題点としてとらえることが要求されます。体験や探検だけで終わってはならないと指摘されるのは、次に学習を仕組まなければならないという先生の課題が待ち受けています。その際、問題点が解決されれば完結するような内容であれば、それは子どもがとらえた学習問題に過ぎません。つまり課題にまでは広がっていないのです。問題点の中から広がりのある、あるいは関連性がある問題を子ども自身が追求してみたいと思える課題に組み立て直す作業がいります。方法が分かっていなければ、この部分は先生と子どもが問答をしながら固めていくことになります。
 やがて、子どもたちが自分の課題を持つことの意味が理解できるようになったら、先生の援助はあまりいらなくなります。次に、追求してみたい課題が価値あるものであるならば、子どもにとっては学習課題が設定できたことになります。学習課題が価値あるものかどうかを、子ども自身の見通しや判断にゆだねることは、困難があると思います。ねらいや到達点が設定できるかどうか、学習として価値があるかどうかは、先生が構想として持っている指導計画に照らし合わせなければならない部分です。
 教科の場合、教科書という教材が目の前にあり、内容に対するねらいが明確に示されており、指導によって到達させる目標も示されています。仕組まれていないのは、教材に示されている問題から、子どもたちにとっての課題をいかにつかませることができるかという点です。すべての問題について、課題をつかませることができるのではありません。課題解決的な学習に適している問題に限られます。
 手始めに、問題と学習問題、課題と学習課題を言葉の持つ意味に即して使い分けてみてはいかがでしょうか。そうしないと主体的な学習を思い描くことはできないのではないかと思います。ただ、私も不勉強なものですから、相変わらず使い分けができていないことがあります。お気づきの点はご指摘いただけますとありがたいです。