発問と質問
 発問、問いを発することは、先生が授業で勝負するために研ぎ澄まさなければならない技術です。ところが、専門技術にたどり着けず、質問で留まっている現実があります。「これの名前は何ですか。」「答えは何ですか。」「理由は何ですか。」「正しいですか、間違っていますか。」思いつく言葉をいくつかあげてみましたが、これらはすべて発問の中でも単なる質問です。
 総合的な学習の時間に使われる発問は、教科の授業と微妙に異なるところがあります。ただ、一つの学習内容にかかわる発問ではなく、内容が異なる子どもたちの学習活動に対応しなければなりません。教科の学習ではねらいとするところと教材がひとまとめになっていますから、支援を要する子どもたちに発問は集中していきます。先生にとっては子どもの反応をつかみやすいと言えます。総合的な学習の時間ではねらいとするところは集約できるものの、学習素材は一つに固定されることはありません。一人ひとりの活動内容をつかみながら、子どもたちの活動を深めたり、広げたりする発問が用意されていなければなりません。教科の授業より難しい点はこんなところにあります。
 しかし、教科の授業で指導力を培ってきた先生ならば、難しさもあまり感じないでしょう。要は、一人ひとりに目を向けて、その子が今何をして、どんなことを考えているかをつかんできているならば、状況に応じた発問は用意できます。指導力を培ってきていない先生は、勘違いされています。一斉授業だけそつなくこなし、一人ひとりを十分見ないで進めていると予想します。一人ひとりの意味が理解できていないということです。経験年数だけベテランと言われている先生に欠けているのはここでしょう。
 言葉は変わっても同じことです。今はやりの「個に応じた」というのは、以前からある「一人ひとりに応じた」、「個人差に応じた」と何ら変わりません。言葉を変えたら、注目度が上がるかというとそうはいかないでしょう。文部科学省の官僚諸氏には悪いですが、人間の意識を変えると言うことはそんな生やさしいものではありません。それこそ、先生自らが個に応じた研修をすべきでしょう。
 総合的な学習の時間では、練り上げた発問から子どもたちの多様な考えを引き出すという作業はあまり必要ありません。興味を示したことについて、見通しが持てるように深め、広げる発問のほうが重要になります。ところが、一人ひとりに応じているときに、発問以前の質問に終始しているようでしたら、先生の関わりは子どもの活動を邪魔しているかもしれないという心配が出てきます。
 質問は素人でもできます。しかし、発問は専門技術です。似たような仕事にテレビ番組のアナウンサーやレポーターが問いを発している場面によく出会うと思います。相手の思いに立って質問を用意しているアナウンサーやレポーターはさすがだと感心させられます。反対に自分が尋ねたいことだけを質問しているアナウンサーやレポーターはお粗末で、相手に対して失礼な人に見えてきます。先生だけでなく、アナウンサーやレポーター、議員等々、話すことを職業にしている人にとっては、発問の技術は重要な部分を占めます。その中でも人を育てるという役目を担っている先生の発問の技術はとりわけ重要田と思います。
 指導力を身につけたいと思う若い先生は、ぜひ質問攻めの授業から、発問をする授業へと実践研究をして欲しいと思います。早くたどり着ける道筋はありません。自分の発する言葉に厳密になるだけです。という私も、まだまだ未熟でありますが・・・。