目標と目的
 総合的な学習の時間が2年目に入り、大ざっぱな見直しの視点を4月時点で書きました。しかし、職場が変わって少しずつ何を実践しているかが見えてきますと不安を隠せません。形だけできているような雰囲気が漂っているのです。私が基本的に考えてきたことは、総合的な学習の時間だけ指導要領のねらいに沿って実践が展開されることではなく、主に指導法を軸にした先生の意識変革がなされることでした。ですから、「こんな学習素材を使うとうまくいきますよ。」という情報を提供し続けることが目的ではありません。これまでの指導法を改めることによって、総合的な学習の時間はもとより、様々な教育課題を克服していくためのもとになる考えを認識していただきたいわけです。
 そこで、手始めに今回は学習の中での目標と目的について取り上げました。目標とするところは、「ねらい」「めあて」という言葉に置き換えられて子どもたちに伝えられていると思います。教授という指導法をとるならば、先生の教授によって子どもたちにたどりつかせる到達点が目標になります。主体的な学びを促す指導法をとるならば、先生の支援によって子どもたちが到達しなければならない目標になります。同じように受け止められるかもしれませんが、学習の主体が先生にあるのか、子どもにあるのかは理解いただけると思います。同じなのは、到達すべき目標なのだということです。学級の何割かが到達すればよい目標ではなく、全員が到達すべき目標です。
 到達目標の考えは、最近注目されているものではありません。1970年代に焦点が当てられ、通知表に到達目標の考えを盛り込もうと工夫してきました。しかし、教える側の意識変革は進まず、指導要領の改訂ごとにテコ入れされてきた経緯があります。いかなる手だてを取り上げたら学校現場に到達目標が受け入れられるのかを思案してきたのが審議会です。絶対評価を全面に出し、評価規準を設定した理由はここにあると考えています。ところが、総合的な学習の時間に設定する到達目標は、学習内容がばらばらですから、実践している学級集団ごとに設定しなければなりません。ひな形はなく、先生自ら構築することが迫られています。
 一方で目的という言葉は、目標を達成するために使われる手段、先生用語でいえば「手だて」ですが、その手だてを実行するための裏付けになる部分です。例えば、図書やインターネットで調べるのは、目標にたどり着くための手段であって、目的を誤ると調べることが目標になってしまいます。体験活動をすることが目的としてとらえられていないと体験活動そのものが目標になってしまいます。いわゆる、調べるだけで、調べて分かったらおしまい、体験だけさせて満足したら「よかったね」でおしまいということになってしまいます。
 目標にたどり着くために、一人一人の子どもたちが目的を自分のものにすることが学習活動の要になります。これは総合的学習の時間だけに求められている考え方ではありません。問題解決的な学習、主体的な学習を展開しようとするあらゆる教科で求められていることです。
 意識変革がなされているかどうかを先生自身が評価しようと思えば、ここで取り上げた目標と目的が使い分けられているかどうかで判断することができます。当然、授業研究の指導案を書くときに手だての目的が明確に表現されていることになります。曖昧に使っていた言葉を一つずつかみくだいて、言葉の持つ意味をきちんととらえないと意識の変革は期待できないと思います。前回、自分自身の反省材料になった「課題と問題」についても同様のことがいえます。
 ということで、引き続き見直したい言葉を話題にしてみようと思います。