総合的な学習の評価論
 先生なら気になる評価です。それ以上に気にしているのが保護者かもしれません。一番気楽なのは子どもたちです。しかし、一つまちがえれば、子どもたちが一番不利益をこうむることになると思います。
 評価と成績をごちゃ混ぜにして権威と権力を行使することにより、評価は誤解を招いてきました。評価される側が「あまりにも辛い結果だ。」「あまりにも甘い結果だ。」と感じたならば、そこで評価の信頼は失われるわけです。その信頼を裏付ける材料として数字に頼ってきたからこそ大多数は無難に相互納得できました。
 ところが、生活科のあたりから従来の方法が使えなくなってきました。その子の活動の様子ややる気を先生が判断して評価し、成績をつけたのですから、見逃した子どもや先生の評価基準に合わない子は、成績に何らかの矛盾を感じているはずです。ただし、評価を学習の過程の中で生かしてその子の取り組みを援助していたならば、信頼を損ねる矛盾はないと考えられます。

 総合的な学習においても、学習の課程における評価と先生の支援が機能することが基本になると私は考えています。学習の結果はオープンエンドになることが多くなりますから、結果を成績として示すことが必要かどうかは議論の分かれるところでしょう。
 どうしても成績として評価しなければならないとしたら、総合的な価値観を持つことです。比較して優劣を決めるのではなく、追求していった内容や方法の検討、結果の独創性などを総合的に判断することです。
 保護者にしてみれば、総合的な学習の段階的な評価は必要感がないと考えられます。選抜入試に直結しない教科には興味関心が多くないでしょう。従って、「あなたのお子さんは1学期間次のようなテーマでこんな学習結果をまとめられました。」という文章記述が一番すっきりしそうです。記号でつけられないところが、総合的な学習の領域の特性になります。相対的にも、絶対的にもいくつかの基準を設けて評価することはあまり意味がないと思います。

 評価は、子どもたち一人ひとりの部分的な能力を一時的に記号や数字で示したものにすぎません。絶対的なものではないと信じているから、たいして気にせず生きていけるわけです。しかしながら、まちがった劣等感や優越感を抱かせてしまうこともあるわけですから、おろそかにはできません。ほめることもバネになります。厳しく叱ることもバネになります。私自身は、先生と子どもの人柄、間柄に委ねられていると結論づけます。