総合的な学習と生きる力3
 二つ目に思い浮かぶのが「情報構築能力」です。これまで、情報に関する力は、ずいぶん小分けで考えられてきました。情報収集、情報処理、情報活用、情報分析、情報発信、情報伝達などの言葉に象徴されます。ところが、小分けにした結果、非常に狭い範囲で能力を論議してきました。しかし、日常の中では、情報を統合的、総合的に取り扱っていく力の方が要求されると思います。コンピューターの世界でいえば、大容量のRAM=ランダムアクセスメモリみたいなもので、命令に従って必要なデータの出し入れが自由に行われている世界です。機械にできないのは情報の取捨選択や結合などで、自らが判断、思考によって情報を制御している部分です。
 「情報構築能力」という言葉を持ち出した理由は、能力の統合化、総合化を図りたかったというのが一番です。あらゆる階層の人間が、生活の中で自分は情報とどのように向き合っているか、内部処理の共通する点は何かなどを考えていく中で、当てはまりそうな言葉としてたどり着きました。学んできたことはすべて一人ひとりが固有の情報として構築していると考えます。興味関心の方向によって、好奇心によって、関連する情報の有無によって独自の情報を自分のために使えるように集め、自分の能力に応じて分析、再構築を行っています。その結果、まとまってきた自分の考えを関わりのある人に発信して、意見を求めたり、同意を得たりしているのが日常の出来事だと思うのです。
 これまで、情報=知識という限定的な理解がされているおそれがあります。しかし、本来情報の中身は、そんな単純なものではなく、人の意思、判断の結果、感情、価値観まで含めたものとしてとらえておく必要があります。情報過多とか、情報不足とかに表れてくるのは、知的情報中心ですから、知っているか、いないかだけの判断で終わってしまいます。知らないことでどのような不都合が生じ、どのような不利益をこうむるかまでは考えないことが多くなっています。言い換えれば、情報を鵜呑みにしないで、事実を確かめるようにという意見が交わされるとき、情報=知識ではなくなります。自分が構築してきた情報と比較検討したり、他の情報とつきあわせたりすることで新たな情報が生成されています。大人も子どもも関係なく、生活の中で営んでいることです。
 「情報構築能力」が優れているかどうかを判断する場合、何を規準にしているかが問題になってきます。例えば、大工さんが家を建てるとき、木の特徴、強度、梁構造、間取り、デザイン、機能性、コストなど多くの有用な情報を集めて、それに見合う技術で仕事がなされます。有用な情報が少なかったり、かたよっている大工さんだったら、完成後に居住すると不都合が見つかる可能性も多くなるでしょう。そうならないように、ベテランも新米も情報を構築しながら、完成度を上げるようにめざしていると思うのです。このように、知識や価値観が行動となって表れていくような力を想定しています。
 構築された情報がすべて白日の下にさらされるとは限りません。著書にしたり、映像作品にしたり、絵画作品にしたりするような形あるものに表される場合もあります。しかし、日常的には、生きている本人の頭の中だけにひたすら作られることの方が多いはずでしょう。
 もう一つの側面として、情報を構築するためには自ら情報を集めて、取捨選択していかなければなりません。文字、映像、音声以外に体験や経験も含めます。不可欠の情報もあれば、必要性、興味、関心にもとづく情報もあります。それらを能動的に集めてこそ、自らの構築に役立つものとなります。情報構築能力は個性、人格をも形作るものですから、高いから優れているとか、低いから劣っているとかの評価はできません。構築した情報の次元の高低にかかわらず、判断や分析に使われていくことで、優れていると考えられます。意思を表明した行動がともなって初めて、構築された情報は意味を持つようになります。同じ情報を得ていても、人によって意思表明の中身は異なります。ここに尊重される個があるわけです。
 総合的な学習の時間に「調べる」という方法をよく使うと思います。調べることが目的になって、調べてどうするのかを問われることはないでしょうか。「情報構築能力」を根底に置くと手段と目的は使い分けられるのではないかと考えます。