総合的な学習と生きる力2
 一番に思い浮かぶ力は、「コミニュケーション能力」です。広辞苑で示されている意味の中でも「思想交換能力」がぴったり合いそうです。自分の考え、思いを伝え合い、話し合うことによってお互いの考えや思いが深まったり、高まったりする営みです。単にコミニュケーション=相互情報伝達という意味合いで使うことは適切でないと考えます。情報を伝え合うことによって、情報は双方向に流れていくことは確かです。しかし、発信者の考えや思いは暗にくみ取るにすぎず、一方的なものになっています。情報の垂れ流しと酷評されるマスメディアの現実がそのことをよく表していると思います。
 素朴な考えとして、人間が生きていくのに必要な力は何ですかと問われたら、答えはいかがでしょうか。私は、言葉を操る力だと考えています。コミニュケーション能力と重なる力をさし、決して雄弁、饒舌をさすものではありません。社会の中で人と関わり合いながら生きている人間として幸せを考えるために言葉を操ることは欠かせないものになります。
 人間が学ぶことを可能にしたのは、言葉を生み出したことが大きいでしょう。言語能力、国語能力、日本語能力・・・しっくりとすべてを言い表す言葉が見つかりませんが、読み、書き、話す、聞くという学習は、一つだけ身につけても役に立ちません。そのことは識字運動が証明しています。話すだけで、よりよい生活をおくることができなかった人たちの存在があります。文字を読んだり、書いたりすることで、文化は蓄積され、伝え合うことをしてきたわけです。言い換えると、思考や伝達の手段として文字がありますから、言葉を操る力は最も基本的な能力になります。言葉を操る力は、他の能力あるいは技能を獲得していく中で相互に補間されながら育っていき、同時進行でスキルが要求されると考えています。
 言葉に関連して、人間だけに備わっている特徴として「笑う」ということがあります。笑いはストレス解消に効果的と宣伝した教養番組もありました。しかし、人間がなぜ「笑う」のかを説明することは本題からはずれてきますので省きます。「笑い」はコミュニケーション能力と深い関わりがあります。言葉を獲得していない赤ちゃんでも笑うではないかと反論されるかもしれません。が、生活の中で「笑う」という場面がでてくるのは、言葉を操る中で生み出された感情表現だからです。うれしい、楽しいに付加された「可笑しい」という価値を持っているからこそできることだと思うのです。
 言葉を操る力はすべての人が基本的に身につけなければ、次に進めません。もちろん、その力は、国語という教科の中だけで担えるものではありません。その力が生活の中で人と人の営みにつながったときにコミュニケーション能力として発揮されます。漢字が書ける、難しい言葉を知っている、話し方が流ちょうである、要点をつかんで聞くことができるなどの力を生活の中で生かして、あらゆる場でコミュニケーションをとることができます。逆に知っている言葉が少なくても、話が上手でなくても、繰り返し聞かないとなかなか理解できなくても、あらゆる場でコミュニケーションをとることはできます。
 一方で、コミュニケーションを行うためには表現力が必要という意見があります。しかし、よくよく考えていただきたいのは、何のために、何を表現して伝えるのか、あるいは、伝え合うのかという問いかけです。表現力を育てるためには伝える相手を意識させなければならないとよくいわれます。この段階でも一方通行にとどまりやすい受け止め方が残っています。そこを一歩進めて、相互に情報の価値を高めていく営みがなければ、まさに情報の垂れ流しです。お互いに判断すべき価値や意思が飛び交うことで、合理的な納得のいく考え方が蓄積されるのではないでしょうか。これまで様々な問題を解決してきた過程の中でコミュニケーション能力は大きな役割を果たしており、これからもより一般的に培っていく必要性の高い能力だと思います。そして、総合的な学習の時間では必要とされる場面が多くなる能力だと思います。