総合的な学習の消滅論
 来年度から高等学校で新指導要領が完全実施されます。それにともなって、総合的な学習の時間をどのように組み立てていくか現場で論議されているころでしょう。日本教育新聞を読んでいますと高等学校での総合的な学習は、小・中学校以上に消極的というか、模索が続いているというか、実施に向けての苦しい事情が多いように伺われました。本格実施に向けての見通しの落差が学校によって大きいようです。その中で気になるのが、総合的な学習は遠からず、近からずいきづまって消滅するだろうと考えている先生がいることです。
 確かに、高等学校段階では、新しい教科が創設されたものの教科書も発行されず立ち消えしていくような例がありました。しかしどうでしょう。小・中学校では、戦後新しい教科が創設されることはあっても消滅した教科はありません。唯一消滅したのは「自由研究」という枠組みでした。もちろんそのことが総合的な学習は消滅しないという根拠になるものではあり得ませんが、消滅するという考えの真意はつかんでおきたいところです。
 おおかたが本気で取り組まない、あるいは取り組めないだろうという考えがあります。その背景には、以前にも記したように主要教科とはいえない、評価がしづらい、大学入試選抜に影響力のある教科ではないなどの思惑が見え隠れしています。子ども自身に必要な学力は、入学試験や入社試験を通過するためのもので十分だと解釈しているとこのような考えに陥るのではないかと思います。どの校種にも共通して言えることは学力より範囲の広い人格形成を目指すことが基本的な部分になると考えます。優秀な能力とあわせて総合的に優れた人格の持ち主を形成しなければ社会の損失になります。抽象的な表現ですが、人間的に優れていると判断する価値観を持って影響力を及ぼさないと自分勝手で利己的な人がふえそうな気がしてなりません。価値観の多様化といいながら危惧する現実は目の前にありそうですから。
 地域の教育力があったときは、家庭、学校、社会が担っていたわけです。この立て直しのための具体的な行動計画と総合的な学習の実施は共通部分を持っています。家庭や地域を巻き込まずして、相変わらず教科学習だけ熱心にしていたのでは、やがて学校が取り残され、孤立していくような不安を私は感じています。
 もう一つの真意として、人間の意識は簡単に変わらないと考えたうえでの消滅論です。形成された意識は人格にも表れてきますし、自分を存在させようと保守的に固執しやすくなります。これまでやってきたことで自信と安心をつかんできたわけですから、おいそれと考え方を変えていくのは確かに難しいことです。意識が価値観と結びついて明文化されていくと思想が形成されますから、なおさら困難になります。ここを乗り越える方法は、常に学ぶことしか思いつきません。先生が学ばなくなったら、おしまいかなと思っています。意識は、体制の変化や強権的な命令、情緒的な洗脳で変わるものではないと私自身は考えています。
 現実的なところで、総合的な学習が消滅するかどうかの瀬戸際に立つときは、入試制度が大きく変えられるときやカリキュラムの再編成がされるころになるだろうとにらんでいます。進路の決定にもっとも近いところにいる高等学校ですから、小中学校とは一味違った実践がでてもおかしくはないでしょう。