進まない負の要因4
 「忙しい」「多忙」という言葉は、どんな職種であっても出てきます。しかし、実態としてその中身や原因について語られることは少ないのが現実です。場合によってはあいさつ代わりになっています。「忙しいですか?」と声をかけられて「暇でしょうがありませんわぁ。」とは答えにくいもので「忙しいですわぁ。」と答えることが多くなります。真意はなくてもいいわけです。「もうかりまっか?」、「ぼちぼちでんなぁ」と同じやりとりです。
 しかし、現実に分担や処理すべきことの数が多いために多忙というならば、オーバーワーク状態で好ましくないと考えられます。組織の中では有能な人、または積極性のある人に仕事がたくさん回っていき、合理的に処理するのが普通です。有能な人が有能をめざす人を育てるのも組織が担っていますが、オーバーワークになると人を育てることは機能しにくくなります。
 以上のような「多忙」を解決するには組織の中で話し合うしかありません。校務分掌の不均衡を見直すとともに一人一人が多様な経験を積み重ねられるように分担の交代を促すことになります。学校の人事は必ず入れ代わりを前提に動いていますから、多様な経験をしていないと経験年数に応じた力がつきません。その結果、転勤を繰り返していく中でオーバーワークが増大していく悪循環にはまってしまうわけです。この人にこの仕事を任せておけば無難にことが運ぶと考え、人を配置すると失うものがあることを知っていなければなりません。
 一方で、処理能力が高くないためにオーバーワークとなって「多忙」に結びつく場合もあります。何をもってして処理能力が高くないかは、個々に分析する必要があります。要領がよくない、手順の習熟が不足している、計画性に乏しいなどが考えられます。学校現場の仕事には製造ラインのような明確なマニュアルはありませんから、判断力、企画力を要求されることも多くなります。単純な事務処理をこなしながら実践のための企画、立案もこなせなければなりません。総合的な学習の実践では端的にそれが現れてきます。頼りにすべき教科書も解説書もありませんから、専ら判断力、企画力が要求されます。他校の実践で踏襲しようとするとずれが生じてうまくいかなくなり、「忙しいだけで、なかなか軌道に乗らない。」になります。
 こちらの「多忙」は個人の問題ですから、解決の意志があるかどうかです。自分の性格だからどうにもならないと諦められたら、手の施しようがなくなります。教員の資質向上という目的で研修機会があったとしても、本人に解決の意志がないと研修の意義は見いだせず、強制的に研修を仕組む効果は期待できません。それよりも孤立させないよう小さなことをほめて自信をつけさせる組織的な支えに期待する面が強いでしょう。いわゆる遅れがちな子どもを指導していく方法と同じことになります。
 「多忙」の裏返しは「ゆとり」ではなく「暇」です。一部始終子どもたちにはりついていたら、「暇」は生まれません。課題に一生懸命取り組みはじめた子どもたちにはりつくよりも、先生はその隙間時間に展開の構想を検討すればいいわけです。子どもたちがスキルをしているとき、先生は丸付けやノート処理をすればいいわけです。自ら「暇」を作らなければ「多忙」は解消しません。