進まない負の要因1
 これまで、総合的な学習を進めるには指導法を変えなければならないことを主張し、指導法を変えるためには、先生自身の教育観あるいは指導観を意識変革しなければならないと書いてきました。しかし、意識はどうしたら変えることができるのかというところで止まったままでした。
 読み直していた資料の中に興味深いものがありました。ちょうど「学級崩壊」がマスコミで騒がれていた後に調査されたもので全国の小学校に送付されているはずです。「小学校における学級の機能変容と再生過程に関する総合的研究」中間報告書 国立教育政策研究所2002.3.30 この中の福岡教育大学 油布佐和子 助教授の分析の要点です。

 「学級は生活共同体であり、そこで教師は教科指導のみならず子どものさまざまな側面の教育に携わる」=伝統的教職観教師と定義。「学校では子どもの生活全般まで面倒を見る必要はない。」=非伝統的教職観教師と定義。
 後者の教師像として次のように述べています。
 包括的ではなく、学習指導に限定した単機能的な学校観・教育観、能力主義的な傾向。教育行為は教師主導型。学級において児童との交流や相互行為を楽しみつつ指導するというより、自らの計画に従って目標へと単線的に児童を教育するのが日常。仕事を私生活に持ち込まないタイプ。
 尊敬する同僚がいるとしても、それは「個人的」な態度・意識にとどめられており、具体的に同僚と共同関係を築いているわけではない。35歳から49歳の中堅層に多い。教師の価値観の変容によって生まれたものではなく、教育実践の中で生起する子どもの困難な状況に対処を迫られているにもかかわらず、学校の外にも内にも「子どもを育てる」協力関係を得ることができない。そうした孤立した状況の中で、教師は責任の範囲を自らで限定し、乗り切っていこうとしている。(油布佐和子 福岡教育大学)

 現場の先生が上述のような傾向にあるというのではありません、アンケートの文言から分析した結果、上述のような教師像を描いたということです。年齢構成からいえば、いずこも採用数の多い世代です。現場から思いを巡らすと、詰め込み教育からゆとりと充実の教育に転換した昭和50年代以降になります。初任者研修を重視した文部行政は平成になってからですから、採用数が増え続ける中、10数年は旧態依然で新採用研修をしていたころと重なります。
 これらのことをあわせて考えると、上述のような先生像は、社会の変化や生育の過程で培われた資質というより、職場に入った時点で擦り込まれ、自己判断で形成された資質と思われます。初任者が大勢いる中で、きめの細かい校内での研修機会が持てず、問題事例がおこらない学級維持を一番に考えていたような記憶があります。また、先生の人数が多ければ、校務分掌上も多様な経験を積むことができにくく、学校全体を動かす機会も均等には回ってこなくなりますから、そつなくこなす先生像がでてきてもおかしくないわけです。
 以上のような一部閉塞的な状況を持った組織としての学校はこれまでにありましたから、変革するための手だてとしては、率先してリーダーシップを発揮できる人材を育て、配置していくことが一番です。崩れかけた会社組織を立て直す方法と変わりはないと考えます。唯一違うのは、学校現場にはリストラという選択肢が今のところ存在しないということです。
 文科省をあげつらうようになりますが、世論の批判をかわそうと目先の対策に追われていたのでは、泥沼にはまることはあっても脱出はできません。学校現場で先生が自信と誇りを持って日々の実践にいそしめる状況を作ることが一番だと思うのです。それは、単純に職能研修を増やすとか、教員免許を更新制にするとか、人事考課制度を導入するとかの方法で解決できるものではないと考えます。外部からのテコ入れ策ではなく、学校内部の組織的な問題として、人的に解決しなければならないことです。抽象的な手だてになってしまいますが、職場の中の人間関係を整え、風通しをよくした中で実践交流を進め、先生同士の学び合いができる場が必要です。依存して人任せにすることなく、協業ができている学校組織は先生も子どもも学校が楽しい場になっていると思うのですが、いかがでしょう。