総合的な学習のゆくえ
 総合的な学習のにぎやかなメディア情報にごまかされないために、どうしても書きたいことが出てきました。どうしようかと迷っておられましたら、ぜひ熟読をおすすめします。総合的な学習は、実践事例を追試しても成功しません。できたように結果がみえるだけです。地域の素材を生かして、生活科が教師主導でなく、子ども主体で実践できていたら素地はあるといえます。
 教師の意識が変わらないと、授業が変わらないと総合的な学習は難しいと言われています。このことは、単に実践上の留意することを意味しているのではありません。まず教師集団の中で論議して、確信を得ていく大切な部分だと私は思います。「意識を変える」は、「指導法を変える」ことです。指導法を変えるという教師の研修課題がないならば、教師主導の教師が考える問題を受け身的に解決させられている総合的な学習が誕生します。
 伝統的な「教授」なる指導法から、「問題解決学習」・「個別化学習」・「学び」なる指導法に教師が変えなければなりません。悲しいかな、指導法の研究が必要ですと主張しても、総合的な学習の研究に意識がつながらないのが現実の情報です。ただし、後者の指導法を大前提に実践を公開しているところは、本物です。 では、指導法が変わったといえる要点は何か。

1 子どもが問題を自由に選択し、自分の判断で学習内容を把握している。
2 学習全体の計画が子どもに見えていて、理路整然と進めている。
3 必要な情報、学習材料が自由に常識的範囲で使いこなせている。
4 子どもが学ぶ価値がある、必然性があると理解している。

 最低、これぐらいの条件は必要不可欠です。
 かつての同僚と話したときのこと。ノーチャイムをあちこちで取り入れているが、うちの学校でもやってみようということになったものの、うまくいかず立ち消えていったという。形だけからまねをした典型的な取り組みでした。ノーチャイムになったほうがいい、なってもかまわないという必然性が教師にも子どもにもないのです。授業を工夫して45分の枠が邪魔になる授業実践を教師集団が行っていたら、こんなことにはなりません。

 総合的な学習においても、教師、子どもがやってみたい、やらせてもらえる必然性が仕組まれていないといけません。その条件が上に書いた4つのことです。