よい子
 少年による凄惨な犯罪が起こるたびに話題になることがあります。一つはテレビゲームやドラマ、映画などのメディアによる影響。もう一つは「よい子」、「普通の子」という周囲の印象や評判。
 前者は、凄惨なシーンを見慣れていくと、現実も虚構の世界も同一視していくのではないかというとらえ方です。様々な論評にふれることが多いと思いますので、これについてはそちらに譲ります。ただ、虚構の暴力シーン、性描写などを未熟な子どもに見せなければ問題が起こりにくいと考えるのは、安易ではないかと思うのです。子どもたちが理性をどのように形成していくかを考えるとき、見せるか見せないかだけでは解決できないでしょう。
 さて、もう一方の「よい子」、「普通の子」というのは、表面的、主観的な見方で、必ずしも内面に立ち入って判断しているものではありません。根拠となる言葉として、おとなしい、従順、素直、我慢強い、聞き分けがいい、落ち着いている、反抗しない・・・などが用意されています。親にとっても、先生にとってもこんな性格だけで包み込まれている子どもは、「育てやすい」、「教えやすい」という言葉にすり替わっていきます。子育てが楽々とできるに違いありませんし、問題行動も起こりにくいと思いこんでしまいやすいです。
 しかし、冷静に考えてみてください。葛藤することがないまま平穏に過ごしていくならば、それでいいかもしれません。ところが、ひとたび不条理な思いを抱え込んだ場合は、悶々とした葛藤が表面化しないことになります。「キレル」という事態が用意される仕組みはここにあります。
 「よい子」、「普通の子」というのは、本人にとって価値ある評価ではなく、周囲の人間にとって都合がいいだけなのです。それを端的に言い表しているのが「育てやすい」、「教えやすい」という言葉です。対極にある言葉を使い分けることで一面的な見方はいとも簡単に崩せます。おとなしいというのは感情を露わにしないことととらえられます。従順というのは自分の意思を押さえてでも波風たてないようにすることととらえられます。つまり、プラス思考の言葉をいったんマイナス思考の言葉に置き換えてみることで、真意をつかむことが可能になるはずです。
 子育ての中でいつも意識しておいて欲しいのは、「意思を持った一人の人間である」という事実です。我が子が「○○ちゃんは嫌いだ」という意思を示したとします。あなたならばどう受け応えますか?「そう。嫌いなの。いろんな人が世の中にはいるから、嫌いな人が現れても当たり前だね。」それとも「○○ちゃんにもいいところあるかもしれないよ。決めつけないでなかよくしたらどうかな。」それとも「嫌いなんだね。でも、無視しちゃいけないよ。必要な受け答えをするのは避けられないからね。」それとも「嫌いだなんて言っちゃ○○ちゃんがかわいそうだよ。あなたが○○ちゃんから嫌いだって言われたら悲しいでしょ。」
 些細なひとことで我が子の意思を封じ込めることのないように育てましょう。私なら3番目かな!