子どものために
 「子どものために・・・」という意識は、昭和30〜40年代に小学校を生き抜いてきた親にきっちり浸透したようです。当時の世論として登場したのは、「教育ママ」という言葉になって表れていました。それまでは、子どものためにと思って親が世話を焼きすぎることに対して「親ばか」という言葉で否定的に扱われてきました。時代背景としては経済の飛躍的な成長にあわせ、乗り遅れてはならないと思うことから始まっています。経済的に裕福であることが幸せであり、そのためには高学歴を手にすることが最短コースであるというシナリオを信じ、「教育ママ」が正当化されたわけです。
 子どものためによかれと思ってやっていることはことごとく子どものためになっていないという結果に気づいて欲しいところです。これは、家庭だけではなく、教育現場にも世代交代によって色濃く出始めていますから、不安材料が増えているとわたしは考えています。
 なぜ、「子どものために・・・」という考え方を否定するのかは簡単なことです。子どもの自立を親が妨げているからです。学校現場で実行されれば、なおさら子どもの自立を遅らせる原因になってしまいます。例えば、高校や大学の入学試験に保護者が引率したり、大学の入学式や卒業式に保護者が現れたり、挙げ句の果てには大学の後援会に保護者会の組織ができたりする現実があります。一人前の扱いをすべき年齢に親が付き添うのは、「親ばか」でしかありません。
 20歳で法的に一人前と規定しながら、16歳で結婚が可能であり、就労も可能である現実。4年間のブランクを埋め合わせながら生き抜いている人もいるわけです。逆に、親離れ、子離れができないまま、4年間以上引きずっている現実もあります。自立というのは、一人前の生活をしていくために当たり前の条件として身につけていかなければならないことです。自立し損なうと自律さえおぼつかないことになります。
 生活時間にゆとりが出てきた昭和40年代以降、ゆとりを自分のために使わなかったから「親ばか」、「教育ママ」が増えてしまったと考えることもできます。子どもが思春期にさしかかったとき、親は対等に子どもを見守っていけば、自然にゆとりが生まれ、親は自分のためにゆとりを使うことができるはずです。いつまでも子どものそばに付き添って、お節介を焼いていると子どもは自己決定できず、責任さえ自分のものとしなくなるだけでしょう。
 「子どものために・・・」という考え方は、植物を育てるときに鉢植えで育てるのと同じことになります。生育できる条件を極端に制限しているため、ことごとく世話をしないと上手に育てることができません。露地に植えた植物は水や肥料を手抜きしても何とか育つのに、鉢植えではそうはいきません。露地植えでは、ころあいを見て、株から少し離れたところに肥料を与えれば、植物は自分から根を張って肥料を獲得しようとします。近すぎるところに肥料を置けば、効き目は薄まり、場合によっては植物をだめにしてしまうこともあるわけです。

 思春期を迎える子育てにさしかかっている方は、自分と親の関わりを振り返り、自分の子どもに対面してほしいと思います。決して、自分が親にされてきたことが最善と思わないことです。親が関われることは、子ども自身で社会的責任が負えない部分に限られてきます。契約主や保証人の部分だけです。