自立の道
 子育て、しつけ、家庭教育・・・言い方は様々ですが、ねらいとするところは一つです。このコラムで、私がうんちくしていることすべて、自立への道筋になります。多くの場合、自立していない人は自律できませんから、何よりも責任を持って仕上げて欲しいことです。
 服装、髪型、持ち物、運転免許、喫煙、飲酒、薬物など不良行為や非行に直結させて学校が規制をかけること自体間違っています。だれが責任を負うかは分かり切ったことで、保護者と本人しかいないわけです。第三者が規制をかけることによって、責任の所在が分散され、自立を邪魔しているのが現実でしょう。
 高学歴でなかった時代には、15歳を過ぎれば一人前に社会的責任を負っていました。20歳にならなくとも婚姻はできますから、何歳を目指して自立しなければならないかはっきりしています。中学卒業が節目であることは今も昔も変わりません。
 なのになぜ、自立がどんどん遅くなっていったのでしょう。自立せずに、人に面倒を見られ、責任の重さを感じないまま生活すれば、わがまま三昧で気楽に決まっています。大学卒業まで生活費を親からもらえば、これほど呑気な暮らしは他にないでしょう。本人を鍛え上げるよりも、一人前でないと思いこんでいつまでも我が子に肩入れしていたのでは、自立のしようがありません。入学式、卒業式、はたまた入学試験、就職活動に至るまで親が付き添っているなどアホらしくなります。本当に必要なことは、保護者が保証人にならざるを得ないときだけです。いつの時代でも、我が子を自立させることが子育ての基本です。これは動物の世界ですと生き残るために必然的に行われていることです。
 封建的な家父長制度の話になりますが、長男は跡取りでいつまでも親元にいるから、しつけは甘くなり、二番目以下は独り立ちできるようにしつけるという原則がありました。一家族の子どもが少なくなったため、みんな長男の甘いしつけが蔓延したことも自立を遅らせる理由になったかもしれません。我が家を出て独り立ちするか、他人様の家族に入る子どもに恥をかかないだけのしつけはしておきたいと、心配したわけです。家父長制度の不合理な部分は捨ててもよかったのですが、恥をかかせない独り立ちのしつけは捨ててはいけない部分です。
 よくある話として、親の言うことをきかない子どもの親が、諦めたように、言うこときかないんでどないにでもしてくださいというのがあります。親が子育ての責任を放棄したらおしまいです。我が子の自立を諦めているこの事態は最悪といわねばなりません。わが子が可愛いと思えばとことんできるのに、諦めてしまわれると、子どもにとっては見捨てられたも同然です。
 自立。難しく考えることは何もありません。字のごとく、何でも自分でできればいいのです。できなければ、できるまで自力でさせるだけのことです。いつでも、だれが訪れても大丈夫な程度に一人で暮らすことができれば問題ありません。