入学のころ
 昔は物がないからこそ、心をなくさないように生き抜いていたと思うのです。しかし、昨今はどうでしょうか?物に不自由しなくなった代わりに繊細な心をどんどん失ってしまったようです。昔は素朴な道具しかありませんでしたから、時間がないとてんてこ舞いして生き抜いていたと思うのです。しかし、昨今はどうでしょうか?便利な道具と暇つぶしの道具に囲まれて、時間を持て余しているように思えてなりません。
 いまや自分を見つめるには本当に厳しい時代です。安直な考えや怠惰な気分と格闘しなければならないのですから、半端ではないと思います。そんなときに入学期の子どもに対応する方法をまとめてみました。
 小学生になるんだからと親はけじめをつけたくなります。でも、子どもにとっては日常の続きでしかありません。そこを冷静に判断すれば、この子は何ができて、何がまだうまくできないのかつかめるはずです。要は、できていないことをできるように励まし、ちょっとでもできそうになるとおだてるぐらいにほめればいいのです。できないことを見つけては、けちをつけるようにがみがみ言っても効果はないのです。一応言ってやったという気休めにしか過ぎません。
 もう一つのパターンは、「何でこんなことができないの」と親が許可なく子どものすべきことを取り上げてやってしまう場合です。極端になると、できていない宿題を親がやってしまう現実があります。こうなると最悪で、食べるのが遅い子どもの食事を親が横取りして食べて、一件落着にするのと同じことです。まずいです。どこまでも、自分のことは自分でするという原則を貫いていただきたいと思います。
 以上のことは広範囲にわたりますから、首尾一貫するように覚悟しないといけません。人に会ったときあいさつができない場面、「あいさつは?」と促すまではいいのですが、「なんて言うのかな?・・・こんにちはでしょ!言ってごらん。」とさらに促した後に「無愛想でごめんなさい。なかなかあいさつができなくて困っているんですよ。ホントにこれで一年生になって大丈夫かしら・・・。」となると最悪です。おわかりと思いますが、親がしゃべりまくって結局この子は「こんにちは。」を言ってないのです。親が代わりに言ったり、言う機会を与えなかったりすると学習権の侵害です。とことんして欲しいという願いがあるなら、子どもに言わせて、させなければ身に付きません。
 冒頭に繊細な心を失っていると書きましたが、礼儀を知らないと礼儀を教えることができません。礼節わきまえるということは相手があるから成立します。話の途中で話に割り込まない。定位置についている人の前を横切らない。相手の気遣いを感じたら感謝の言葉がいえる。くしゃみや咳をするときは口を手でかざす。履き物を脱いだらそろえる。引き戸は閉めるとき最後の一押しを静かにして、大きな音をたてない。口を開けたまま咀嚼しない。・・・。相手に不快感を与えないというだけでなく、落ち着いた振る舞いをすることができる効用があると思います。
 捨ててもいい習慣と捨ててはいけない習慣がふるい分けされないまま、古めかしい、めんどくさい、自分は何とも思わないからいいというような理由だけでなくしたものが多いでしょう。
 最後にもう一つ、なくしているのではと思うことに数の概念があります。数字だけに執着したおかげで、数字の持つ意味を生活の中で意識しなくなっていますから、下手に計算を教えて喜ぶより、数字と物の数を対応させる努力をして欲しいところです。