時代の変化に対応
 世の中は確実に変化しているのに対応が遅れている分野が目立ってきました。政治・経済が展望を失っているからというのは理由ではありません。家族関係、雇用関係、教育、果ては子育ても時代の変化に取り残されていると私は考えています。
 一つ目は、子育てをしていくための夢がありません。「末は学者か大臣か」「立身出世」などの言葉は博物館に入って、日の目を見ることはなくなりました。子どもたちの多くは、大学から先の生活基盤になる仕事が描けず、自立していないとも言えます。能力と興味の向くところを秤に掛けて仕事を持つ目的以上に生活設計がないと言った方が分かりやすいでしょう。仕事があって、生活が成立するのではなく、仕事は生活をするための手段でしかありません。生活と仕事が補完関係にある人はごく一握りの人たちだけだということに気づかなければなりません。
 二つ目は、家族が育ててきた常識がなくなったということです。都市集中型の経済戦略にはまった結果、核家族は子育ての軸になる部分を失いました。しつけはさることながら、尊敬とか、知恵とか、社会常識とか面倒くさいものを置き去りにしてきたわけです。結果的に社会人になっても、その場に応じたあいさつの仕方を教えないとあいさつができない。取引先に対する依頼文書やお礼状を作らせても決まり文句さえかけない。電話の応対に至っては、最初からいうべきことを指示しないと話にならない。社会生活を営むうえでの常識的なやりとりは初めての体験になってしまっています。新卒社会人は口先だけで使い物にならないというのはかなりの確率で当たっているわけです。
 三つ目は、家族の役割を教育現場が抱え込んでいることに気づいていません。生活習慣、食習慣、人付き合い、礼儀などなど、常識的な生活スタイルが失われています。そもそもご飯の炊き方、おかずの作り方を学校で引き受けたところから間違いは始まっています。「あなたは勉強が仕事だから家の手伝いなんてしなくていいの。」というせりふは学校が訂正して言うことです。「学校は勉強するところですから、遊び方や掃除の仕方、給食の食べ方、友達づきあいはしっかり家で教えてください。」と言いたいところです。
 学校のためにあるいは仕事をするために勉強させられてきたところに問題があるのですから、親の世代が冷静な判断を下せるよう、世の中の変化に目を見張り勉強することが子育てになります。子育ては一種の投資ですから、投資に見合うだけの収入やステータスを得なければなりません。医者になれとレールをひくのではなく、少ない投資で高い収入を得るためにはどんな道があるか、子どもに語ることができるようになればいいのです。投資をして競争に勝ち抜くに値するかどうかは、出資者と投資されるものが納得ずくで進めるだけです。成功の暁には投資に対する配当を子どもから得られる家族関係を維持することです。
 つぎに、子どもに常識がないのは、親に常識がないからです。親代わりに常識を教えないといけない子どもたちは限られています。教えることのできる常識を勉強しなさいとしか言いようがありません。うちの子がダメなのは学校がきちんと分かるように教えてくれないからだと「くれない族」「あげる族」になりきってませんか。これから先、投資に見合うだけの配当を得ようと思うなら、投資する値打ちがあるかどうかを見極めることです。