つじつまのあうしつけ
 家庭でのしつけと似たところがあるものですから、ちょっとだけ学校の中を紹介します。学級集団を掌握していくとき、先生は子どもに対して約束事をつぎつぎと出していきます。自分の席に着くときの約束、発言をするときの約束、途中で席を立つときの約束など明文化しない形で伝えられることがほとんどです。約束が増えていくに従って、はじめに出した約束が変わることなく弾力的に維持されていれば学級集団は、集団として動いていきます。ところが、つじつまがあわなくなるたびに子どもたちの不信感は増幅されていきます。
 例えば、人の話は最後まで聞けと言っていたのに、先生自ら子どもの発言を途中で打ち切るようなことがあれば、ああ最後まで聞かなくてもいいのかと子どもたちは判断します。的がはずれていたので、もう一度考えるようにというつもりがあったとしても、そのことが学級全体に伝わっていないと約束は変わったことになってしまいます。最後まで聞かなくなった子どもたちに約束が違うだろうと言っても、違うのは先生だよってことになります。
 家庭では、個々の子どもを動かし、しつけていくわけですから、長い目で見ていく必要があります。例えば、口にものを入れたまましゃべってはいけませんと約束したとき、約束を言った本人が約束を破ったときどんな話になるでしょう。自分は特別なんだと相手にしない。素直に認めて気をつけますと言う。よそ見してるからこぼしてるよなどと言って、話をはぐらかしてごまかす。つじつまのあわないごまかしは、うそつかないようにと言っておきながら、自分でうそついているじゃないかと二重、三重に不信感をあおってしまいます。
 また、なんべん言ったら分かるのという事態も結局、最初の話と現在の状態のつじつまがあっていないわけです。脱いだ靴はそろえなさいとか、宿題すましてから遊びなさいとか、繰り返し言っているのにできないことがあります。靴をはき始めたころにどんな関わりをしたか、言っている本人が忘れ去っている可能性が高いのです。1年生になってしばらくすると初めての宿題が出ます。そのときどんな約束や関わりをしたか忘れ去っているのです。
 こうしたつじつまのあわないところを修復するのは簡単ではありません。その場その場でころころ変わらないように一貫した考えや方法を自分のものにしないとうまくいきません。一つひとつの約束に納得できる理屈がつけられないと不信感は拭えません。そもそも、完璧につじつまがあう人というのは多分いないんじゃないかと思いますが、怖いのはつじつまがあわないのに従順に従う子どもたちが増えていることです。通常反抗期という形でつじつまのあわないことに反発する時期があればいいのですが、がまんし続けて突然爆発するのが怖いですね。
 不安になることなく、単純に考えればいいことです。ふつうに、ありのまんまに、ほんねとたてまえが離れすぎない生き方をしていたらこんな心配はないでしょう。学級崩壊や親子関係の歪み、不登校など根っこにあるものは、つじつまあわせができていないという現実だろうと思うのです。