あげる・くれる・もらう
 子どもをしつけていくとき、親はもちろんのこと周囲の人間も自分が発する言葉の影響力を常に考えてほしいと思います。深刻なものとしては差別を助長する言葉が一番責任重大なのですが、それ以前に表題にあげた3つの文末です。なぜこの文末を使わないようにしたいかという意図は約30数年前にさかのぼって考える必要があります。
 高度経済成長をまっしぐらに上りながら、高学歴、高収入を期待して子どもたちに声をかけてきた結果なのです。「手伝いはしてくれなくてもいい。勉強をしっかりしてくれたらいいのだよ。」「がんばったら、好きなものかってあげるからね。」「みんなにすごいねっていってもらうためにがんばるんだよ。」「何が何でもいい大学にいってくれたら、もうそれだけで安心なんだから。」・・・親子の主体的な生き方というより、親の期待感にあふれた声かけの中で育った子どもたちが大人になったらどうなったでしょう。「してもらい。」「してくれた。」から今度はわが子に対して「してあげる。」番になってしまったのです。
 こんな文末の会話が蔓延していると自立をめざすことができないと理解していただけるでしょうか。自分ができること、したいことを自力でやり遂げてきた方々には、十分納得していただけると私は信じています。「してもらった。」から「してあげる。」という親子関係は、まるで鎌倉時代のご恩と奉公の考えそっくりだと思いませんか。双方の価値観がずれたときに一瞬のうちにして絆は断ちきられる恐れがあります。たかが言葉尻にたいした意味はないと思うのなら、今時の寒々とした親子関係の首をかしげる部分をきちんと説明してほしいと願っています。
 では、意識を変える言葉はどう組み立てていけばよいのでしょうか。むずかしいことではありません。「私はかように思うが、あなたはどうですか。」「あなたは、私にどうしてほしいと思うのですか。」「私ができるのはここまでですが、その先はどうしますか。」・・・親という自分と子どもという自分が対等に話を進めていくことです。これは、先生対子どもの関係でも同じことだと考えます。