共同作業としての子育て
 人格が固まった後の子育ては、一人の人間として向き合い、よりよいものを求める共同作業みたいなものです。親の思いを実現させたいという親のわがままは控えて欲しいことです。親は一番身近な信頼に値する「生き方のモデル」になります。もちろん賛同できるモデルになることもあれば、「あんな親にだけはなりたくない」という反面教師のモデルになることもあります。
 今、マスコミの餌食になっている17歳の事件を考えるとき、本当に共同作業をしてきたのかなと首をかしげる点が見つかります。ただ、新聞やテレビという報道者の視点で伝えられた事実の一部分ですから、批判できることではありません。いじめ、受験は社会問題の一面を持っていますから断定は避けますが、少なくともよりよいものを求める共同作業があったのかなという疑問は残ってしまいます。
 先日、床屋さんでプレイステーション2の話題になりました。仮想現実の中に作られたバトルゲームは絶対子どもによくないと主張されるのです。3Dアニメの画像技術はとてもすばらしいが、バトルゲームを現実に置き換える子どもがいるからあんな事件が起きるというわけです。納得する反面、すべてそうなのかなという疑問がよぎってしまいます。文学の世界でも同じことはあるし、童話にだって残酷な話はいっぱいあるのですから、一概にバーチャルリアリティのバトルゲームが悪の根元とは断定できないようです。仮想現実と現実の違いを埋め合わせるのは「倫理観」という難しい学問を持ち出すまでもなく、経験、体験豊かな親が埋め合わせできるならそれでいいんじゃないかと思うのです。親ができなければ、学校も含めて地域社会の大人が役目を果たせるはずです。
 夢はいくらでも描けるけど、現実は厳しいもんだ。子どもにはよりよい暮らしをして欲しい。この隙間を親が勝手に埋め合わそうとするから、子どもは主体をどこに求めようかと悩んでしまうのではないでしょうか。「自分が17歳の時何をしていたか」このことを子どもに語れる親であって欲しいと思います。17という数字はいくつになってもかまわないことです。そのことが親子で共同作業をしている子育ての姿だと私は考えています。